hasunoha お坊さんが必ず答えてくれるお悩み相談サイト

お坊さんに質問する
メニュー
メニューを閉じる

心を休める場所

回答数回答 1
有り難し有り難し 11

今、仕事から実家に帰って子供の世話、仕事の勉強をする生活をしています。土日はたまった家事、平日できなかった勉強、実家なので実親とささいなことで衝突し、少しでも何か言うと不満や文句がすごいです。
私が仕事にでて子供の世話や家事の大半ができないことで、特に母には迷惑をかけています。
父も母も協力してくれとても感謝していますが、感情をむき出しに不満を列挙されることも多く、居場所が無いと感じるようになりました。
また、仕事では資格をとるため家庭で勉強をしなければならず、思うように勉強がすすまないことと、子育てとの両立がてきてないことなど、毎日ストレスを抱えてしまいます。
正社員の仕事にすぐつけて、実家で子供の送り迎えなどしてもらえて、ありがたい環境なのに、資格は今年落ちてもよいとは割り切れず、自分自身で忙しい状況を作り出してる気がします。
このところ体調を崩す日が増え、薬を服用しないと過ごせない日も多くなりました。
一体、自分はどうするのが正解なのかわからないです。
計画的にとアドバイスをいただきましたが、やはり仕事上、資格試験を受験しないわけにはいかず、受験するからには勉強が必要で、そのためには家族の協力も必要となってきてしまいます。 
しかし、家族と住むの自分にとって大きなストレスとなってしまっています。ありがたいと思っていても、立場上文句や不満は癒えない分、それが態度にでて、実母にもストレスを与えてるのかもしれません。不平不満をぶつけてくるのは自分がイライラしているからだとも思うのですが、頭痛薬で治めるときもあれば、サプリメントや、市販の漢方を試してみましたがイライラが消えたりはしません。
他の人がストレスにならないこもに、私は不快に感じてしまっている気がして、歪んだ性格に嫌気がします。
私はいつになったら心を穏やかにできるのでしょうか。


この問答を娑婆にも伝える
facebookTwitterLine

お坊さんからの回答 1件

回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。

設定や条件付けがいつ生まれているか自分観察

「今日はこうしたい」
いつの間にかそれが生じていますね。
それ通りでないと期待通りにならないからイライラする。
人間だけが条件付けを作ります。
人のいないところでは都合が生まれません。
勉強するなら図書館が快適です。
私もこういう回答をするにあたり、1歳4歳7歳の子供に阻止されてしまうことは多くあります。
マイルール、マイ条件、マイ欲求、マイ設定があるのです。
それを無くせばイライラや怒りは生じません。

{{count}}
有り難し
おきもち

お悩み相談08020659278
今月の法話 文殊の剣 ❝己がそのものを観ていながらそこに余計な色や思いをつけたさぬその己の様子を「こそ」見届けてみてください。❞(本文より) 「大丈夫、慧の剣を取る。」 大いなる菩薩や老師は智慧の剣を取って、人の迷いの見解を断ち切り真実の姿をみせてくださいます。 智慧の剣とは人間の自我、我見の無いこころからなる、無垢で清らかなる「事実の様子」「本来の様相」を見極める力ともいえましょう。 それこそが智慧の剣なのです。 文殊とは自己を鎮め得た者の姿。 人間の内なる思慮分別の猛獣を修め得て、その上に鎮座する姿。 事実を事実のとおりに見るということは、余分なものがないということです。 そこに現れる余分な見解というものを断ち切った姿。 そもそも、もともと一切の事象、事実というものには余分なものはありません。 とは言えども、それでも人は人の習癖・習慣的に物事に思いをつけたす。 いまや「写真で一言」という要らぬ添え物をするバラエティ文化もあるぐらいですから、ものを本当にそのままに受け取るということをしない。 文殊様の持つ剣、智慧の剣というものは、そういう人間の考えを断ち切る働きを象徴したものです。 その文殊の剣とはなにか? お見せしましょう。 いま、そこで、みているもの、きこえていること。 たとえ文字文言を観るにしても、そのものとして映し出されているという姿がありましょう。 文字として見えているだけで意味を持たせてもいない、読み取ってもいないままの、ただの文字の羅列のような景色としてみている時には、文字であっても意味が生じません。 本当にみるということはそこに安住しています。他方に向かわない。蛇足ごとが起こらない。 見届けるという言葉の方が適しているかもしれませんね。 ❝己がそのものを観ていながらそこに余計な色や思いをつけたさぬその己の様子を「こそ」見届けてみてください。❞それはものの方を見るというよりはそれを見ている己を見つめる姿ともいえましょう。 そういうご自身のハタラキ・功徳に気づく眼を持つことです。 あなたの手にはすでに文殊の剣がありますよ。用いることがないのはもったいないことですね。

温かい気持ちになるお坊さん説法まとめ