生きようという意欲、こんなにないなんて。
なんとか7月から、働いております。
毎日いやだな、としか思えず。
怠けたい訳では、決してありません。
誰だって働くのはしんどいのも分かっています。
働くこと自体は嫌いではありませんが、空気読めなかったり
仕事できなかったりで、対人関係も上手く行ったことありません。
(前の会社も13年いましたが最後は社内ニート状態でした。)
人生、何一つうまくいったことも楽しいこともなかったし、
何をやっても駄目な自分しかみてこれなかった。
幸せな実績が全くない、このことでなかなか生きることに
前向きになれません。失敗する気しかしません。
これから、幸せになれるように充実した人生送りたい
このまま生きて、駄目な自分をこれ以上続けたくない。
もう見たくない。
やり直せるのだろうか?いくら気持ちを入れ替えようとしても
もうこんな人生続けたくない気持ちの方があまりにも
強すぎるみたいです。
でも、せめて普通の人生生きたい。
二つの気持ちの間で引き裂かれそうです。
お坊さんからの回答 1件
回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。
幸せを外に求めない、あなたは大切な宝物を持っています
人生、何一つうまくいったことも楽しいこともなかったし、
何をやっても駄目な自分しかみてこれなかった。
幸せな実績が全くない、このことでなかなか生きることに
前向きになれません。失敗する気しかしません。
普通の人生が歩みたいとのこと。
幸せってなんでしょう。願いがかなうこと?自分の思ったように全てのことが運ぶこと?
なんかしっくりきませんよね。みんながそんなことを思って行動していたら地獄になりますよね。
それぞれ人には個性や性格というものはある。しかし、それはみんな違うそれだから楽しい。それを同じようにしようと思うこと自体無理がある。無理があるから苦しい。幸せを自分以外のところに求めるから、なかなか見つからないで苦しむ。
仏道でいう幸せって、今体のある子の様子に気付くことなんです。みんな生まれながらに仏性という宝物を持っている(とはいっても掴めるようなモノではない)しかし、幸せが自分以外のもので着飾ったり、お金という紙切れだと思っているとなかなかそれを見つけることがかなわない。
幸せは自分を知ること、全てを受け入れること。自分はこの体であるという枠から飛び出し、身の回りのモノやヒト、イキモノと一緒になって存在していることに気付くのです。
するとこだわりがなくなり幸せが、あれこんなところにあったの?ということになるのです。
仏道は自分自身の体に学びます。目の働き、耳の働き、鼻の働き、舌の働き、体感じる働き。
想像の世界や不思議世界の話ではありません。五感は損得、好き嫌い、善悪、嫉妬、面倒くさい、何にも価値評価しないのです。もし、食べた後すぐにおいしいまずいを言っているとしたら、それはその前にその味がしたということがあった事実をないがしろにしているということです。そのあとの価値評価、考えや思いの方を握っている証拠です。
幸せは思いや考え方にはありません。事実にこそ幸せになる道があります。
思いや考えを手放すことは勇気がいりますが、手放しても何にも問題なく生きることができます。
やってみてください。救いはあなた自身の中にあるのです。
質問者からのお礼
ご回答ありがとうございました。
お礼を書こうと思いつつ考えてしまいました。
私は、幸せを外に求めていないから、逆に満たされないのかな、と。
○○を買ったから幸せ!とか思えないですね。仕事が上手く行かないから、好きなものを
買おう、とか食べようとかしてきたけど全然満たされなかったです。
彼氏や友人や自分を理解してくれる人が欲しいのかもしれません。
いつも孤独だし、親の生活道具だったし、、、。
過去をいろいろ悩んでも、覆水盆に返らずですよね。