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昇任試験の不合格と嫉妬

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いつもありがたく拝読させてもらっております。

私事ではありますが、職場で年に1度行われる昇任試験に不合格となりました。

今年の1月から半年かけて勉強をし、2次試験で不合格となってしまいました。

不合格となったときから、自分には『勉強が足りなかった、また来年頑張ろう』と言い聞かせているのですが、自分よりも後輩が合格していることで、毎朝その者の顔を見るたびに悔しく嫉妬の心が沸き上がってきます。

自分自身が情けなく、毎日悶々としております。
このようなとき、どのような考えをすれば、現実を受け入れ、心を穏やかに相手を祝福し、来年に向けて勉強に励むことが出来るでしょうか?
よろしくお願いします。


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お坊さんからの回答 2件

回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。

ラベルより中身で生きましょう

これは僧侶業界ネタですが、僧侶業界にも肩書があります。
肩書がほしい人は肩書を手に入れることをしようとするのです。
たとえ中身がなくても立派な肩書を手に入れたいと思う人がいるものです。
私の尊敬する僧侶は業界では何の肩書もありません。
それでもウチの業界の中ではその人に優る方に出会ったことがありません。
人間というものは不思議ですね。
僧侶になっても偉くなりたいという人間もいれば、一生無名で実直に生きる方もおられる。
人間の生きる上での本質は、失礼ながらそちらの会社の役職はさほど関係ありません。
仏法に生きる人間は、肩書至上主義ではなく、実質至上主義です。
名もいらぬ官位もいらぬ、金も要らぬ、命も要らぬものは始末に困るものなり。
そういう生き方もあるのです。
3年負けてみてください。
そして、その中で実直に自分の中で心を耕し、熟成、発酵、円熟した自分をめざすのです。
花は他人様に持たせてあげるくらいがいい。
このサイトだって皆さんに花をもたせているのです。
自分のものなんてありゃしません。
そういう生き方の方が結果的に自分の納得のいく花が咲くのです。
「わたしの、おれの、俺にとって、ほんとうはこうなるはずだった」を捨てる度量を持ってください。
今の実際の真実は、そうなのですから、それをそのまま抗わずに頂くことです。

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有り難し
おきもち

お悩み相談08020659278
今月の法話 文殊の剣 ❝己がそのものを観ていながらそこに余計な色や思いをつけたさぬその己の様子を「こそ」見届けてみてください。❞(本文より) 「大丈夫、慧の剣を取る。」 大いなる菩薩や老師は智慧の剣を取って、人の迷いの見解を断ち切り真実の姿をみせてくださいます。 智慧の剣とは人間の自我、我見の無いこころからなる、無垢で清らかなる「事実の様子」「本来の様相」を見極める力ともいえましょう。 それこそが智慧の剣なのです。 文殊とは自己を鎮め得た者の姿。 人間の内なる思慮分別の猛獣を修め得て、その上に鎮座する姿。 事実を事実のとおりに見るということは、余分なものがないということです。 そこに現れる余分な見解というものを断ち切った姿。 そもそも、もともと一切の事象、事実というものには余分なものはありません。 とは言えども、それでも人は人の習癖・習慣的に物事に思いをつけたす。 いまや「写真で一言」という要らぬ添え物をするバラエティ文化もあるぐらいですから、ものを本当にそのままに受け取るということをしない。 文殊様の持つ剣、智慧の剣というものは、そういう人間の考えを断ち切る働きを象徴したものです。 その文殊の剣とはなにか? お見せしましょう。 いま、そこで、みているもの、きこえていること。 たとえ文字文言を観るにしても、そのものとして映し出されているという姿がありましょう。 文字として見えているだけで意味を持たせてもいない、読み取ってもいないままの、ただの文字の羅列のような景色としてみている時には、文字であっても意味が生じません。 本当にみるということはそこに安住しています。他方に向かわない。蛇足ごとが起こらない。 見届けるという言葉の方が適しているかもしれませんね。 ❝己がそのものを観ていながらそこに余計な色や思いをつけたさぬその己の様子を「こそ」見届けてみてください。❞それはものの方を見るというよりはそれを見ている己を見つめる姿ともいえましょう。 そういうご自身のハタラキ・功徳に気づく眼を持つことです。 あなたの手にはすでに文殊の剣がありますよ。用いることがないのはもったいないことですね。

大切なのは比較をしないことではないでしょうか。

今回の昇任試験、残念でしたね。
でも必ずうまくいく。
第三者で、何もわからない私ですが、敢えて書かせて下さい。

試験が残念な結果だったこともさることながら、後輩の方にある意味「追い越された」形になっている現状も、noaさんにとって苦痛なことでしょう。

そんな中、いくら自分を鼓舞したところで、想いが空中を漂うのみ。
余計に自分を害しているだけです。
今のnoaさんは、無意味に頑張るだけでは、来年の試験まで体が持ちこたえられられかねません。

まず、後輩は試験に合格しています。
無理に祝福する必要はありませんが、大した奴だと認めてあげいただければな、と私は思います。
noaさんは努力をされた。
また、後輩も努力をされました。
同じ道を歩むものとして、立派な奴だなと、そう見つめてあげる。

今、あなたは彼の背中を見ようとしていません。
なぜならそんなの認めたくないからです。
わかりますよ。
職種は違えど・・・です。

冷静になり考えて下さい。

彼の背中を見つめ、追う立場として修業する事がnoaさんにとり必要な事。
相手を認め、自分を受け容れる。

「お前の背中は俺がしっかり見ておいてやるよ」という心構えで....
まずは、今の自分を従容と受け容れ、精進して下さい。

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有り難し
おきもち

時宗の寺院で住職をしています。 今の時代、お寺の在り方とは、僧侶とはいったい何か?と、考えています。 僧侶としての根本は、朝のお勤めだと考えております。 週に2回、お寺で空手教室を開いております。 近隣の子供たちに、礼儀作法を伝える。 これも寺院の持つ役割である、地域貢献に繋がると、少なくとも私はそう思い、精進しております。

質問者からのお礼

回答ありがとうございます。

後輩を認めて今の自分を受け入れる

なんと難しい事でしょうか…
無いようでムダに高いプライドがそれを邪魔します。
しかし、それを乗り越えなければ来年も同じ結果になるのでしょうね。

お言葉を胸に自分自身を見つめ直し、受け入れられるようにしていきたいと思います。

ありがとうございました。

回答ありがとうございます。

3年負けてみてください。
そして、その中で実直に自分の中で心を耕し、熟成、発酵、円熟した自分をめざすのです。

失敗は許されない。
周りからも、自分自身でもそう考えていたので、目から鱗が落ちる感じです。

負けること、しかも何度も。
そうやって人は成長できるのですね。

ありがたいお言葉、ありがとうございます。

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