人の役に立つということとは
稚拙な文章で至らない点もあるかと思いますが、どうぞよろしくお願いします。
「人の役に立って生きる」ことは正しいと思います。そう思うのは今までの学校や周囲から教えられてきたからです。私は人に親切しようと思って生きてきました。良い人になろうとしてきました。
ですが、今の私はそう生きるのが嫌になりました。誰かの役に立っても私には何もメリットがありません。唯の自己満足でしかないです。良いことをしても誰も見てくれないことが多いです。お礼を言ってくれない人もいます。そんなことがあると何もかもが馬鹿らしいです。優しくしても利用されているだけな気がします。
無償の愛とはくだらないものだと考えてしまいます。家族愛は気持ちが悪いです。気を悪くされたら本当にすみません。だけど私の家族かだ(母しかいませんが)私を育ててきたのは自分の老後の面倒を見てもらいたいからとしか思えなくなりました。
すみません、話がそれました。
中学では仲のいい友達に裏切られました。大学の友達には優しく接してきたつもりでした。ですが、悪口を言われ、嘘の噂を流されました。別の友達にはいつも愚痴に付き合ってあげました。だけど私の愚痴はまともに聞いてくれませんでした。バイトでは良い子でいるようにしました。いつの間にか孤立してしまいました。
私の性格に別の問題があるからかもしれません。
本当に今までの自分が馬鹿らしく思えます。誰かからいっぱい褒められたかったです。自分を好きになってもらいたかった。そのために行動してきたことは子供っぽく感じます。
私はこれからも人の役に立つよう生きていかなければいけないのでしょうか。
他人に親切されたことはあります。だから私も同じようにしていかなければならない、とは思います。色々矛盾していますね。
優しさに損とか特とかを考えてしまった私が一番性格が悪いです。すみません。
文章が乱雑になってしまいましたが、ご回答よろしくお願いいたします。
回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
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いつかは赦そう
法句経の言葉です
「彼は私を罵った、私を打った、私を破った、私から奪った。
そうした執念を抱えている人に、恨みがついに消えることは無い」
「彼は私を罵った、私を打った、私を破った、私から奪った。
そうした執念を抱えない人に、恨みはついに消える」
本当に心の安楽を得たいのならば、他人を怨む気持ちは捨ててしまえ、というのがお釈迦様の教えです。
表現のしかたは違いますが、何度も何度も同じようなことを説いておられます。
つまりは、恨みを抱えて迷っている人たちから、何度も同じような質問をされていたのでしょう。
それだけ、もすさんと同じようなことで悩む人が2500年前からたくさんいたということです。
江戸時代の高僧・白隠禅師の所に、門前に住む男性が怒鳴り込んできました。
彼の娘が、知らない間に妊娠して子供を産んだのだが、問いただすと娘は「赤子の父親は白隠さん」だと答えたのだそう。
男性は「このクソ坊主」と散々に罵り、「お前が育てろ」と赤ん坊を置いていったのですが、白隠さんは「そうか」と黙って赤子を受け取り、自ら赤子を抱えて村中をもらい乳して歩くようになったそうです。
そのせいであっという間に白隠さんの悪い噂が広がり、「破戒僧」のレッテルを貼られ、信者も弟子も離れていったそう。
その様子を見ていた娘は耐えきれずに、白隠さんの子だというのは嘘であったことを父親に告白し、父親も慌てて謝罪しに行ったそうです。
すると白隠さんは怒りもせず「そうか」と、笑って赤子を返した、というお話。
白隠さんの凄いところは、理不尽な扱いをされても、罵詈雑言を浴びせられても、常に泰然と構えていたところです。
私たち凡夫は、なかなか白隠さんのようにはなれませんが、それでも知っておいて下さい。
恨みを捨てて、赦すことが、真の安楽への道です。
泣きながらでもいいよ、愚痴を垂れ流しながらでもいいよ、人間ですから、嫌なことがあったら毒くらい吐くよ。
けれど頭のどこかで覚えていてね、恨みを抱えたままでは幸せにはなれないと。
そうして、いつかは赦そう。
あなたを罵った人も、裏切った人も。
努力は必要かもしれませんが、必ずそれは実現できます。
もうすでにあなたは仏教の教えに出会っていますから。
諦めずに
もす様
川口英俊でございます。問いへの拙生のお答えでございます。
「情けは人の為ならず」と申しまして、人の為だとしても、いずれ回り回って自分のためになるということですが、まあ、すぐに、あるいは今生では、その結果は出ずとも、善い因縁(原因と条件)を作ったのであれば、その因縁はいずれ、どこかで善い結果をもたらすものになりうるものであるとお考えを頂けましたらと存じます。
この世の全てのモノ・コトは、「因果の法」にて成り立っています。善い結果には善い因縁が必ず必要となります。
もちろん、善い因縁に努めても、善い結果が出る前に死んでしまうこともあるでしょうが、努めた因縁は無駄にならずに業として、来世、来来世へも引き継がれていくことになります。
問題は、無駄だと思って諦めてしまっては、これ以上、善い結果は望めないことになってしまうことです。
種を蒔かねば、実はならぬです。善い種を蒔いて、それをしっかりと育ててあげたいものであります。
仏教では、その種を菩提心と致します。悟りへと向かうために、まずは自分の心への種蒔きと、その育みが必要になります。
善い実を成らすには、善い種、善い水、善い養分、善い光をです。
諦めずに善行、功徳に取り組んで参りたいものです。
川口英俊 合掌
質問者からのお礼
治道様
ご回答ありがとうございます。白隠さんのお話しがとても心に残りました。難しいですが、少しずつ赦せるよう努力していきたいです。とても気持ちが楽になりました。本当にありがとうございました。
秀俊様
ご回答ありがとうございます。すぐに良い結果が出るよう焦るのは辞めようと思います。今までのことが無駄ではないことが分かって良かったです
これからは焦らず、諦めないよう良い縁に努めていきたいです。