hasunoha お坊さんが必ず答えてくれるお悩み相談サイト

お坊さんに質問する
メニュー
メニューを閉じる

人の役に立つということとは

回答数回答 2
有り難し有り難し 12

稚拙な文章で至らない点もあるかと思いますが、どうぞよろしくお願いします。

「人の役に立って生きる」ことは正しいと思います。そう思うのは今までの学校や周囲から教えられてきたからです。私は人に親切しようと思って生きてきました。良い人になろうとしてきました。
ですが、今の私はそう生きるのが嫌になりました。誰かの役に立っても私には何もメリットがありません。唯の自己満足でしかないです。良いことをしても誰も見てくれないことが多いです。お礼を言ってくれない人もいます。そんなことがあると何もかもが馬鹿らしいです。優しくしても利用されているだけな気がします。

無償の愛とはくだらないものだと考えてしまいます。家族愛は気持ちが悪いです。気を悪くされたら本当にすみません。だけど私の家族かだ(母しかいませんが)私を育ててきたのは自分の老後の面倒を見てもらいたいからとしか思えなくなりました。
すみません、話がそれました。

中学では仲のいい友達に裏切られました。大学の友達には優しく接してきたつもりでした。ですが、悪口を言われ、嘘の噂を流されました。別の友達にはいつも愚痴に付き合ってあげました。だけど私の愚痴はまともに聞いてくれませんでした。バイトでは良い子でいるようにしました。いつの間にか孤立してしまいました。
私の性格に別の問題があるからかもしれません。

本当に今までの自分が馬鹿らしく思えます。誰かからいっぱい褒められたかったです。自分を好きになってもらいたかった。そのために行動してきたことは子供っぽく感じます。

私はこれからも人の役に立つよう生きていかなければいけないのでしょうか。

他人に親切されたことはあります。だから私も同じようにしていかなければならない、とは思います。色々矛盾していますね。

優しさに損とか特とかを考えてしまった私が一番性格が悪いです。すみません。

文章が乱雑になってしまいましたが、ご回答よろしくお願いいたします。


この問答を娑婆にも伝える
facebookTwitterLine

お坊さんからの回答 2件

回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。

いつかは赦そう

法句経の言葉です
「彼は私を罵った、私を打った、私を破った、私から奪った。
そうした執念を抱えている人に、恨みがついに消えることは無い」
「彼は私を罵った、私を打った、私を破った、私から奪った。
そうした執念を抱えない人に、恨みはついに消える」

本当に心の安楽を得たいのならば、他人を怨む気持ちは捨ててしまえ、というのがお釈迦様の教えです。
表現のしかたは違いますが、何度も何度も同じようなことを説いておられます。
つまりは、恨みを抱えて迷っている人たちから、何度も同じような質問をされていたのでしょう。
それだけ、もすさんと同じようなことで悩む人が2500年前からたくさんいたということです。

江戸時代の高僧・白隠禅師の所に、門前に住む男性が怒鳴り込んできました。
彼の娘が、知らない間に妊娠して子供を産んだのだが、問いただすと娘は「赤子の父親は白隠さん」だと答えたのだそう。
男性は「このクソ坊主」と散々に罵り、「お前が育てろ」と赤ん坊を置いていったのですが、白隠さんは「そうか」と黙って赤子を受け取り、自ら赤子を抱えて村中をもらい乳して歩くようになったそうです。
そのせいであっという間に白隠さんの悪い噂が広がり、「破戒僧」のレッテルを貼られ、信者も弟子も離れていったそう。
その様子を見ていた娘は耐えきれずに、白隠さんの子だというのは嘘であったことを父親に告白し、父親も慌てて謝罪しに行ったそうです。
すると白隠さんは怒りもせず「そうか」と、笑って赤子を返した、というお話。

白隠さんの凄いところは、理不尽な扱いをされても、罵詈雑言を浴びせられても、常に泰然と構えていたところです。

私たち凡夫は、なかなか白隠さんのようにはなれませんが、それでも知っておいて下さい。
恨みを捨てて、赦すことが、真の安楽への道です。

泣きながらでもいいよ、愚痴を垂れ流しながらでもいいよ、人間ですから、嫌なことがあったら毒くらい吐くよ。
けれど頭のどこかで覚えていてね、恨みを抱えたままでは幸せにはなれないと。

そうして、いつかは赦そう。
あなたを罵った人も、裏切った人も。

努力は必要かもしれませんが、必ずそれは実現できます。
もうすでにあなたは仏教の教えに出会っていますから。

{{count}}
有り難し
おきもち

様々なつらい別れや痛みを、私も経験しながら今日を生きています。 あなたの...
このお坊さんを応援する

諦めずに

もす様

川口英俊でございます。問いへの拙生のお答えでございます。

「情けは人の為ならず」と申しまして、人の為だとしても、いずれ回り回って自分のためになるということですが、まあ、すぐに、あるいは今生では、その結果は出ずとも、善い因縁(原因と条件)を作ったのであれば、その因縁はいずれ、どこかで善い結果をもたらすものになりうるものであるとお考えを頂けましたらと存じます。

この世の全てのモノ・コトは、「因果の法」にて成り立っています。善い結果には善い因縁が必ず必要となります。

もちろん、善い因縁に努めても、善い結果が出る前に死んでしまうこともあるでしょうが、努めた因縁は無駄にならずに業として、来世、来来世へも引き継がれていくことになります。

問題は、無駄だと思って諦めてしまっては、これ以上、善い結果は望めないことになってしまうことです。

種を蒔かねば、実はならぬです。善い種を蒔いて、それをしっかりと育ててあげたいものであります。

仏教では、その種を菩提心と致します。悟りへと向かうために、まずは自分の心への種蒔きと、その育みが必要になります。

善い実を成らすには、善い種、善い水、善い養分、善い光をです。

諦めずに善行、功徳に取り組んで参りたいものです。

川口英俊 合掌

{{count}}
有り難し
おきもち

Eishun Kawaguchi
最新の仏教論考はこちらでご覧頂くことができますが、公開、非公開は随時に判断...
このお坊さんを応援する

質問者からのお礼

治道様
ご回答ありがとうございます。白隠さんのお話しがとても心に残りました。難しいですが、少しずつ赦せるよう努力していきたいです。とても気持ちが楽になりました。本当にありがとうございました。

秀俊様
ご回答ありがとうございます。すぐに良い結果が出るよう焦るのは辞めようと思います。今までのことが無駄ではないことが分かって良かったです
これからは焦らず、諦めないよう良い縁に努めていきたいです。

「心構え・生きる智慧」問答一覧

夫の過去の浮気が忘れられない

浮気、不倫など自分とは無縁だと思っていたら、夫が不倫していました。 夜中に自分の部屋で女と電話している所を同居の娘に聞かれてバレました。 娘も私に言い出さなくて、2ヶ月は胸に秘めていたそうです。 女と遊び始めてからは、夫は 仕事にも行かず、女のシフトに合わせての外出、外泊、3日空けずに女と昼間からホテル。私は離婚するつもりで、探偵を雇い 証拠を揃えて、弁護士も雇い、女に慰謝料請求しました。怒り狂った夫は、私と娘に恫喝まがいの暴言を吐きましたが、結局は、慰謝料請求を取り下げて欲しいと言う事。もちろん、却下するものの、女は弁護士から送られた内容証明を無視。 弁護士からもあんな酷い態度の女性は初めてで、無視を続けてる以上、どうしようもない。訴えたところで、離婚していないのなら、判決で決まる慰謝料なんて少額。 訴えれば、私が損をすると畳み込まれました。 夫とは、よくよく話し合い、許してはいないけど、謝罪は受け入れる事にし、仕事にも復帰した夫、憑き物が取れたように、顔つきも元に戻り、平穏な毎日を送っていますが、私はあの女が許せないままになっています。夫が1番悪いことはわかっているつもりですが、無視をしつづけてる女が許せない気持ちが続いてしまってます。 自宅のパソコン、夫のLINEが同機していたので、2人のLINEやりとりはずっと見ていました。見てはいけなかったのでしょうが、探偵に情報を送るために確認していました。そのLINEには女が、離婚をそそのかしていたり、泊まりをねだっていたり、私の悪口を書いていたり、別れると言いながら、夫を呼び出しホテルで仲直りを繰り返している事がわかりました。 夫はもう一年前の事、もう終わった事と自分の中では終わらせてしまってます。 夫とは穏やかに暮らしているものの、私には落とし所が見つけられないままになっています。こんな私は見苦しいですよね? 再構築を選択したとは言え、あの頃の夫の顔つきや、暴言などがフラッシュバックしてしまいます。 こんな私にお言葉を頂ければありがたいです。残りの人生を穏やかに暮らしたいのです…

有り難し有り難し 0
回答数回答 1

普通の家庭への羨望、前向きにがんばれない

あまり一般的とは言えない家庭で育ちました。 親は共働きですが父親が働いたお金をすべてギャンブルに注ぎ込むため、生活費や学費がなくなり子どもの私や姉が高校に入学すると同時にバイトを始め母と一緒に生活費を工面する生活でした。高校卒業時に全部自分で責任を背負うことを決め家を出て、大学に進学しました。そして海外の大学院に進学し今に至ります。 現在私は30歳になり、海外で自分がずっとやりたかった仕事ができています。 それは子どもの頃からの地獄のようなアルバイトの生活とこれからの奨学金の返済義務を犠牲にやっとこの場所に立てているのです。なのにただ何もかも用意された環境で育ち、困ったことがあればすぐに頼れる実家や家族がいて、お金の心配をする必要なく日々を前向きに過ごせている周りの友だちが羨ましくて仕方ありません。 その上「逆境こそがんばらなきゃ!貧困を努力で乗り越えた人たちはたくさんいるよ!」「もっと賢い方法でお金を稼ぎなよ」と子どもの頃から何不自由なく育った人たちに言われても、素直に受け取れません。 周りからがんばれと言われても、そもそも子どもの頃から全部自分で稼いできた人が存在すること、親に頼れない家庭が存在することを知らない人ばかりで実際私の立場は誰にもわかってもらえないことと、周りとのスタート地点の大きな差をただただ思い知らされて心が折れそうです。 「確かにあの時もっとかんばれたんじゃないか?あの時少し怠けていたんじゃないか?」など自分の技量不足や努力不足も疑い始めました。でもこれでも立ち止まらず、立ち止まれずに心と体をぐちゃぐちゃに壊しながらも今まで一生懸命やってきました。 これからももっともっと前向きにがんばってお金を稼がなければなりません。それなのに私は今も周りの生まれた環境を羨み、比較して、なぜ私は今までもこれからもこんなに苦しまなければならないのかと絶望してしまいこれ以上がんばれないままでいます。 周りとの生まれの違いを気にせずに、どうやったら前向きにがんばれるでしょうか?

有り難し有り難し 4
回答数回答 1

SNSでの誹謗中傷が長い間続いています。

あるSNSで複数人、グループのような形で仲良く交流をしてた人々がいました。(以下、ネッ友たちと記載させて頂きます。) そのネッ友たちとは約4年程交流していたのですが、ある日、ちょっとした事で喧嘩をしてしまい、いわゆる喧嘩別れをしました。 喧嘩の内容は、意識のすれ違いというか、 正直なところ、何故そこまで執着して責められないといけないのだろう…といった内容です。どちらに非があるのか、聞かれれば微妙な内容です。 喧嘩をした後は速攻アカウントを削除しネッ友たちから離れました。 それから2年後のある日、たまたまネッ友たちの内の1人のアカウントを発見してしまい、興味本位で覗いてしまいました。 悲しい事に、まだ私に関する悪口が沢山書かれていました。 過去の私の投稿や発言を転載し、揶揄する内容のものもありました。 会話のやりとりもあったため、察するに仲間内で盛り上がり、当時のメンバー全員で書いているのだと思います。 とても怖く、ショックであったため、もうそのアカウントは見ておりません。 お恥ずかしい話なのですが、当時、そのネッ友たちに自身の本名などの個人情報を伝えてしまったため、いつか個人情報をインターネットにバラまかれたりしないか?と心配で仕方ありません。 住所なども特定されてしまう、または既に特定されているのではないか?と余計な妄想までしてしまい悩んでいます。 自分の失態が招いた出来事であるのは勿論承知なのですが、デジタルタトゥーを残されることが特に心配なのです。 正直なところ、2年も誹謗中傷が続いているものですから、何をされていてもおかしくないと考えております。 現在進行形で悪口が書かれる事と、個人情報がインターネットにバラ撒かれないか、という不安で大変辛いです。 毎日、普通に生活していても、ふとした瞬間に書き込まれた悪口を思い出しては辛い気持ちになり、「今も悪口を言われているのだろう。」といった悪い思考に取り憑かれています。 どうしても病的に思い出してしまいます。 私は一生、この不安や憂鬱な気持ちと付き合っていく他ないのでしょうか。 どうすればSNSでの誹謗中傷を気にせずに居られるでしょうか? 何せ粘着されている期間が期間であるため、精神的に大変参っております。 どうすれば気にならなくなるか、または立ち直り方など、心の持ちようをお教えください。

有り難し有り難し 3
回答数回答 1

愛染明王様のご真言を一般人が唱えて良いか

初めまして。 私は、実家の宗派が浄土真宗ですが、中学校と高校が真言宗の学校であり、真言宗のお寺によくお参りに行っております。 そのような中で、真言宗の僧侶の方がお書きになった本を拝読し、YouTubeを拝読する機会があり、愛染明王様のご真言が書かれておりました。 そこで、自分にとっての良縁が結ばれるようにと、自宅で白い紙にお願い事と自分の名前を書き、その紙を両手で挟んで 愛染明王様に語りかけ、ご真言を毎日何回か唱えております。 すると、私にとって良い意味で不思議な出来事がたくさん起こり始め、なんだか毎日が安定して楽しい未来を想像してワクワクしてまいりました。 しかし、ネットでより深く調べてみると、「ご真言を素人が唱えるのはよくない」「敬愛法は素人が安易に行ってはいけない。代償が起きることがある」と書かれており、少し不安になりました。 そこで私は、「確かに、自分はご利益の内容をきっかけにご真言を唱え始めたので、不純で恐縮だった。」と反省しつつ、 「愛染明王様のおかげさまで日々私は安心して楽しく暮らせるようになったのだから、その感謝と挨拶を、愛染明王様が祀られているお寺に伺ってお伝えしよう」と考えるようになりました。 そしてそのまま愛染明王様との繋がりを信じ、ネットの記事を気にせずご真言をお唱えしているのですが、良いのでしょうか?また、よくお参りする真言宗のお寺とは別に、愛染明王様が祀られているお寺やその他のお参りしたい神社仏閣に複数お参りに行くことは、良くないことなのでしょうか?

有り難し有り難し 9
回答数回答 1

楽に生きたい

私は物事をマイナスに考える癖があるようです。 いつも怒られるのではないか、誰かから攻撃されるのではないか、嫌われているのではないかとビクビクしながら生きている事に気づきました。 「ちゃんとしなくちゃ」とか「人に迷惑かけないように」とかいつも気が張っていて何処にいても誰といても休まりません。 常に自分で自分を追い詰めているようです。 かと言って他人にそういう自分の状態を出しているわけではなく、周りの人は私がそんな事考えてるなんて思ってもいないと思います。 そのギャップにも苦しいです。 私は繊細で、大体の人が気にもしないような事を気にしているようです。 人の表情を読み取ってしまったりします。(今この人言ってる事と思ってる事違うな。など) 私のような人間がいる一方で、適当に生きている人(例えば人の話を聞かない人とか、遅刻する人、挨拶しない人、無愛想な人など色々な方がいますが)は凄く自由に見えて、ルールを守らなくても難なく生きてる人もいるんだと疑問に思ってしまいます。 嫌われていると思っていた人に話をしてみたら、そんな事ひとつも思ってないよ?大丈夫だよ?と言われたのですが、表情を読めば私に対して良く思っていないような感じに見えるので、「本心では嫌いだけど大人の対応をしてくれているんだ」と疑心暗鬼になってしまって辛いです。 他人の機嫌を損ねるのが怖いですし、自分を否定されるのが怖いです。 死を考える事は無くなりましたが、1日1日を終えるのが精一杯です。 もっと自由に生きられたらどんなに楽しい人生になるんだろう…。 自分なりに改善策を調べ、何度も何度も実行していますが、なかなか考え方が変わりません。 とにかく生きづらいです。 どうすれば楽に生きられるでしょうか?

有り難し有り難し 3
回答数回答 1

必要以上の罪悪感を抱かなくする為には…?

最近、ちょっとしたことに罪悪感を感じてしまいます。勿論、謝るべきだなと思った事は直ぐ謝るのですが、普通の人なら気にしないようなことに対しても、謝った方がいいのかな?って何に対してもそう思ってしまうときがあります。 例えるなら、外に出かけてて、壁にカバン、もしくは手が軽くぶつかっただけでも、傷付けてしまっていてはどうしようと思って確認しても傷も何一つ無くても、明らかに自分がぶつけたところとは違う所に傷を見付けた時も、実は私がしたんじゃないか?ってモヤモヤしてしまったり、他にも普通の人なら謝らないような小さな事に対しても罪悪感を凄く感じてしまい常に謝ろうか考えてしまいます。 ですが、最近は、その何に対しても罪悪感を感じて謝ろうとするのは、相手を思って謝ろうとしてるのではなく、自分のこの何に対しても感じる罪悪感を消そうとして気持ちを押し付けようとしてるだけだと思うようになりました。 本当に相手を思うのなら、時と状況を見極めて、何の為に謝るのかを考え、相手のためになることをするべきだと思うのですが、普通なら気にしない小さな事でも、申し訳ないことをしたと思い、凄く罪悪感が出てきてしまいます。 特に、大きな失敗した時やメンタルが落ち込んでる時にこういう風になりやすいです。 どうしたら、必要以上の罪悪感を感じなく、小さな事に対して動じなくいられるような精神力を付け穏やかにいられるようになりますか?

有り難し有り難し 1
回答数回答 1

温かい気持ちになるお坊さん説法まとめ