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不安な気持ちに負けない強さを身につけたい

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私は鬱病と診断されて7年程通院治療しています。

患う前は、大胆で大雑把な性格で、なるようになるさ、といった考え方でしたが、病気を患ってからは、一度不安に取り憑かれると思考が停止してしまうかのように、何も手につかず、考えても答えの出ない事を延々と不安に思い続けてしまいます。

最近は治療のお陰で、患った当初に比べれば日常生活にも殆ど支障が出ることがなく生活できるようになったのですが、結婚を視野に入れた彼と暮らすため、務めていた職場を退職し、新しい土地に越して来ました。

新しい職場を探して面接の約束を取り付けるところまでは頑張れたのですが、毎日毎日不安な気持ちで一杯で、なにも手につかず気がつくと日がな一日ボーッとしている日が増えて来ました。

彼にも相談をするのですが、漠然とした不安な気持ちを説明するのが難しく、また、彼は何方かと言えばそういった漠然とした気持ちに疎いタイプの方で、イマイチピンと来ない様です。

私は、趣味も好きな事も人並みにあるのですが、このような状態になるとそれどころではありません。

何かをきっかけに、不安な気持ちを振り払って少しでも生き生きと毎日を楽しみたいです。
また、そばに居てくれる彼の為にも、暗い顔をしているより、明るく笑顔で過ごしたいです。

不安な気持ちも、プラスに変えて行ける強い心を持ちたいです。

心の持ちよう、不安な気持ちとの向き合い方、どんな些細な事でも構いませんので、お坊さん方のアドバイスを頂きたいです。


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お坊さんからの回答 1件

回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。

問題は反発心の方にある

今の自分を嫌う自分
今の自分を快く思わない自分
今の自分を否定的に思う自分
そういうジャッジをするあなたが本当の問題であろうと思います。
私は体が最近不調ですが、問題にならないのです。
問題にする自分があると、倍以上苦しむから、例えば熱があるときは熱があるだけで過ごしています。
お腹が痛いときは痛いだけで過ごしています。
余計なことをかんがえることで、今の状況を嫌って別の状況を願ったり、より良い理想を描き始めるという、総じて「反発心」が出てくるのです。
あなたの問題は、鬱ではなく、鬱を問題にする、鬱に関することで悪い評価をする自分であると思うとよいでしょう。
がん患者が2人いるとします。
片方の方はものすごく悩まれています。
片方の方はポジティブに過ごしています。
同じ状況でも、その状況に対して「何を思うか」によってこころのありようが変わるのです。
流れてくる波をよけようとしたり、抗おうとせず、身を任せて流れて行くという姿勢を大事にしてみましょう。

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有り難し
おきもち

お悩み相談08020659278
今月の法話 文殊の剣 ❝己がそのものを観ていながらそこに余計な色や思いをつけたさぬその己の様子を「こそ」見届けてみてください。❞(本文より) 「大丈夫、慧の剣を取る。」 大いなる菩薩や老師は智慧の剣を取って、人の迷いの見解を断ち切り真実の姿をみせてくださいます。 智慧の剣とは人間の自我、我見の無いこころからなる、無垢で清らかなる「事実の様子」「本来の様相」を見極める力ともいえましょう。 それこそが智慧の剣なのです。 文殊とは自己を鎮め得た者の姿。 人間の内なる思慮分別の猛獣を修め得て、その上に鎮座する姿。 事実を事実のとおりに見るということは、余分なものがないということです。 そこに現れる余分な見解というものを断ち切った姿。 そもそも、もともと一切の事象、事実というものには余分なものはありません。 とは言えども、それでも人は人の習癖・習慣的に物事に思いをつけたす。 いまや「写真で一言」という要らぬ添え物をするバラエティ文化もあるぐらいですから、ものを本当にそのままに受け取るということをしない。 文殊様の持つ剣、智慧の剣というものは、そういう人間の考えを断ち切る働きを象徴したものです。 その文殊の剣とはなにか? お見せしましょう。 いま、そこで、みているもの、きこえていること。 たとえ文字文言を観るにしても、そのものとして映し出されているという姿がありましょう。 文字として見えているだけで意味を持たせてもいない、読み取ってもいないままの、ただの文字の羅列のような景色としてみている時には、文字であっても意味が生じません。 本当にみるということはそこに安住しています。他方に向かわない。蛇足ごとが起こらない。 見届けるという言葉の方が適しているかもしれませんね。 ❝己がそのものを観ていながらそこに余計な色や思いをつけたさぬその己の様子を「こそ」見届けてみてください。❞それはものの方を見るというよりはそれを見ている己を見つめる姿ともいえましょう。 そういうご自身のハタラキ・功徳に気づく眼を持つことです。 あなたの手にはすでに文殊の剣がありますよ。用いることがないのはもったいないことですね。

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