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猛毒おばあ様の御親友(笑)再来!どうしよう!?

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 いつもお世話になっております。
 わかりにくいタイトルかもしれませんが、死んだ祖母との親友(笑)つまり、優しく見えてめっちゃ性格悪いおばさんから、
電話がかかってきちゃいました!!
                *
 その女性は、自らの知人と比較し、私の「生きづらさ」を平気で笑い飛ばし、つらくなって私が泣き出しても「えへ~ロータスちゃん泣かせてちゃったぁ~www」とヘラヘラしていたり、
 私をなだめることもせず「ロータスちゃん、お向かいの電気消えた!!」などと言って世間体を過度に気にしたり、
 祖母が生きている最中も祖母に嫌味を言われて泣きすぎて過呼吸
で喋れない状態の私に「おばちゃん他所の人だから言えないんだもんな!!」と怒鳴ったり…
                *
 要は、あんな祖母と普通に付き合うくらいの人だから、同じように意地が悪いのでしょう。
 現におばあ様のほかの御親友がた(笑)は、相手の短所を探してそこを叩くことに繁盛したり、私の元後見人に喧嘩を売ったり、
 浅学な知識で私を騙そうとしたり…預貯金通帳と保険証券を見せろと言われたこともあります。
                *
 「電話でなかったからどうしたの~?心配したわよ!」
と言われたので半分嫌味で、
「体調悪くしてた~wいや夏バテとかじゃなくて、例のアレねwいろんな人にも迷惑かけちゃって薬増やされちゃって~w先生に外と連絡とっちゃダメって言われてさ~w」と言ってやりました。
 「あ…そう」みたいな微妙な反応のあと、「余計なこと考えないのよ!」と言われたので、「考えたくなくても考えるようにしむける奴いるから本当に嫌になっちゃう~」と言い、少しの世間話をした後
会話は終わりました。
               *
 せっかく仕事も決まって手帳申請もし後は結果を待つだけ、いい方向に向かってきているのに、また災難襲来です…
 「君子危うきに…」ではありませんが、できることならもう関わりたくありません。通常の会話の最中に差別的な事をさりげなく挟んでくるので、本当にストレスがたまります。
               *
 どうすればいいんですかこれ…?
 ご教授のほど、よろしくお願いいたします。


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お坊さんからの回答 1件

回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。

霧の中を行けば覚えざるに衣が湿る

現代人は霧の中の道を歩むような機会はあまりありませんが、湿度の高いところで生活しているといつの間にか着ているものがびしょびしょになっているものです。
夏場で外気を冷ますために、首都高のトンネル内や、催し物のあるところでは、水蒸気が噴出されてその付近の気温を下げることに役立っています。
付き合う人が「そういう蒸気」を噴出する人であると、覚えざるにあなた自身が「そういう蒸気」で染まっているのです。
関わる人を変えることです。
イイ人ぶって何でも相手にすればいいってものではありません。
あなたが相手にするべき人を選べばよいのです。
良き人に交われば、覚えざるによき人となるのです。
影響されるべきものも変えるとよいでしょう。
それをやり続けたり、服用し続けて一向に改善しないのであれば、それは「良くならないもの」だということを早いうちに悟る必要があります。
「これは体に悪くない。大丈夫だ。」と言われて服用して頭痛がするならば、それは論より証拠で体に悪いものなのです。
上手な距離感をとるか、完全に相手にしないことです。
テロや過激組織に興味本位で近づいて命取りになるようなものです。
付き合わなくてよい人間はいるのです。

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有り難し
おきもち

お悩み相談08020659278
今月の法話 文殊の剣 ❝己がそのものを観ていながらそこに余計な色や思いをつけたさぬその己の様子を「こそ」見届けてみてください。❞(本文より) 「大丈夫、慧の剣を取る。」 大いなる菩薩や老師は智慧の剣を取って、人の迷いの見解を断ち切り真実の姿をみせてくださいます。 智慧の剣とは人間の自我、我見の無いこころからなる、無垢で清らかなる「事実の様子」「本来の様相」を見極める力ともいえましょう。 それこそが智慧の剣なのです。 文殊とは自己を鎮め得た者の姿。 人間の内なる思慮分別の猛獣を修め得て、その上に鎮座する姿。 事実を事実のとおりに見るということは、余分なものがないということです。 そこに現れる余分な見解というものを断ち切った姿。 そもそも、もともと一切の事象、事実というものには余分なものはありません。 とは言えども、それでも人は人の習癖・習慣的に物事に思いをつけたす。 いまや「写真で一言」という要らぬ添え物をするバラエティ文化もあるぐらいですから、ものを本当にそのままに受け取るということをしない。 文殊様の持つ剣、智慧の剣というものは、そういう人間の考えを断ち切る働きを象徴したものです。 その文殊の剣とはなにか? お見せしましょう。 いま、そこで、みているもの、きこえていること。 たとえ文字文言を観るにしても、そのものとして映し出されているという姿がありましょう。 文字として見えているだけで意味を持たせてもいない、読み取ってもいないままの、ただの文字の羅列のような景色としてみている時には、文字であっても意味が生じません。 本当にみるということはそこに安住しています。他方に向かわない。蛇足ごとが起こらない。 見届けるという言葉の方が適しているかもしれませんね。 ❝己がそのものを観ていながらそこに余計な色や思いをつけたさぬその己の様子を「こそ」見届けてみてください。❞それはものの方を見るというよりはそれを見ている己を見つめる姿ともいえましょう。 そういうご自身のハタラキ・功徳に気づく眼を持つことです。 あなたの手にはすでに文殊の剣がありますよ。用いることがないのはもったいないことですね。

質問者からのお礼

【丹下 覚元 先生】
ご回答ありがとうございます。
とりあえず、迷惑電話という括りに入れたいと思います。今後また家凸、電凸等がありその手の発言が飛び出したら、「この前もやめてって言ったよね、どうしてもやめてくれないみたいだから」と伝えた上で関わりを断ちます。
それでまだ凸して来るようなら、「迷惑行為」とみなして思い切って警察呼びます。
これで大丈夫ですかね…。

 テロの例え、すごくわかりやすかったですw

温かい気持ちになるお坊さん説法まとめ