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私はタイトル通り、人に意見をするのが怖い小心者です。普段から人と話していて「それは違うのでは?」と思うことがあろうと、その想いを伝えられずにいます。そしてもっと酷いのが、相手がある返答や行為を欲していると感じると、嫌でもその通りにしてしまいます。例えば、自慢話をされるとあれこれでたらめに褒めてしまうんです。私は何をしているんだろうと、冷めながらべらべら褒めてしまいます。「私の好きなアイドルのDVD見る?」と言われると、興味ないのに「見たい!」と即答してしまいます。要求(不明瞭なもの含め)に逆らうのが本当に恐ろしくて、「褒めなければ傷つけてしまうかも、敵意を向けられるかも」と怖いんです。
思い返してみると、これは幼稚園ごろからありました。友達に絵を見せられた時、思ってもいない賛辞の言葉を羅列していたし、私は車酔いがきつくタバコの臭いが苦手なんですが、親が運転しながらタバコを吸っていた時に「やめて」と言えず耐え続け、嘔吐した記憶があります。
そしてこんなことを続けた現在、これは必然的なことですが、私は周囲の人に「自慢話や愚痴を言うためだけの相手」と認識されてしまっています(私だって本心から彼らと向き合えていないのですから、自業自得だと理解しています)。話を一通り聞いた後に私が相談を持ちかけると、たいてい流されてしまいます。そしてそれに「ちゃんと聞いてよぉ」なんて冗談も返せません。
自身の問題を自覚した幼い頃からずっと努力を重ねて来ました。克服系の仏教や心理学の本を読み、主体性を養うべきだとツイッターで議論用アカウントを作り、社会問題の議論に参戦して意見し合っています。キツい反論を食らった夜は大抵胃が痛くて一睡もできません。恐怖心が滲んでいるのか、バイトで「常連クレーマー」と称されるお客さんに狙われ、逃げるように辞めました。
「相手によく思われたいのでは?」とよく自問するんですが、どうしてかしっくりきません。批判にはかなり傷つきますが、それは「認められなかった」からではなく「欠陥品な己を再確認させられた」からではないかと考えています(確証は持てません)。そして、人に意見するのが怖いのは、己が傷ついた時の痛みが思い出されるからではないかと。
こんなんじゃまともに生きていけないし、本当に苦しいです。どうか、お知恵をお貸しください。
回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
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自分と他人との分け隔てを作り上げる癖があるのでしょう。
仏教は無分別の教えです。分け隔て、善悪、損得、好き嫌い、そうしたものが一切ないリアルを知る教えです。
人は生まれながらに完璧です。欠陥なんてないのです。そこに自分勝手な価値観で物事を判断し、あーだこーだやることで自らを傷つけるのです。
そのように自らを知り、実践して行くことで救われるのが仏道というのです。
嫌などがあれば言えばいい。嫌われることも問題ではないです。傷つけないように断ればいいのです。人の自慢話は「そうなんだあ。へー。」で十分でしょ(^^)肯定も否定もせず聞いていたら嘘にもならない。自らを苦しめませんから。嘘は結果的に人も自分も傷つきます。辛い時はその場から離れる。
そうした対処の方法もあるのです。
自分を大切にすることで相手も大切にできる。ワガママでなく、嘘をつかない。傷つけない。大切なことです。ちょっと勇気をだしてやってみましょう。
邦元 様
相手に傷つけられたように見えて、自分で傷つけている、という事実に直面したような感覚です。本当にその通りだと思います。そしてそれは他者もそうであり、もしも配慮をした上で「肯定も否定もしない、正直な感想」を話したとして、「褒めてくれなかった」と相手が万が一傷ついたとしても、それは私が傷つけたわけではない。嘘をつかない。私には正直恐ろしい難題でもありますが、実践に励みます。
ご回答ありがとうございました。お言葉を胸に、精進して参ります。