怒ることの必要性
怒らない人は器が広いなどと言われますし、自分もそう感じています。しかし、だからと言ってムカっとくることをいつも我慢していると「あの人は何を言っても怒らない」などと思われ舐められてしまいます。一体、怒りは出すべきなのか我慢すべきなのか、どうすれば良いのでしょうか。
(捕捉 怒る場面というのは、例えば「ガソリン代は出すから知人に会うために他県まで車で送ってくれませんか」などという「ちょっと」図々しいお願いを受けた時のような場面です。)
回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
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断る・怒る
こんにちは。イエスノーで言うところのノーを伝えるには色々ありますが、まずは「感情と別のところで」「断る」という選択肢がありますよ。「嫌だ」ではなく。例で言うなら「悪いができないよ」と。恐らく「何で?」と聞かれた時に「嫌だ」しか思い当たらないのでは?「何だケチ」とか感情に持ってこられたら「ケチで悪いがね」とか「時間ないから」でもいいんじゃない?「お前、それは図々しいよ」という選択肢でもいい。
あとね、怒るにしても表現は色々あると思いますよ。「その言い方じゃ、流石の俺も怒るよ。」と、低い冷静な声で言う。
いきなりブチ切れて喚くだけが「怒る」じゃありません。怒りの表現のバリエーションが多い、さらには「感情抜きに断る」といった手札を増やしておくことは、将来よい人間関係を作る財産になると思いますよ。人間はデジタルじゃないんだから、「怒る」という動詞だけじゃなく「どんな風に」という副詞を付けていいのですよ。
怒りながらガマンするのではなく、怒りを冷ます
内心で怒っているけど口に出さないのは、怒っているのです。
仏教がめざすのは、内心でも怒らないことです。
「嫌だ」「むかつく」「悲しい」「悔しい」「怖い」という感情を減らす方が良いのです。
なぜ良いかというと、その方が生きるのが楽になるからです。
例えば、警察官は泥棒を捕まえます。
これは、怒りの感情がなくてもできます。
怒りではなく、ただ業務として犯罪を抑止すればよいのです。
怒っていないから泥棒を見逃すわけではないのです。
例えば、怒らなくても掃除はできます。
掃除をするように、事務的に泥棒を捕まえたりパトカーを走らせたりできるはずです。
質問者からのお礼
ご回答ありがとうございます。
自分がいかに感情に支配されてコミュニケーションをしてきたか、改めて気づかせて頂きました。また、いきなりブチ切れて喚く...これはいつもの自分の怒り方の様で、はっとしました。これからはもっと心を穏やかに、どうしても怒るべ
き場面でも、冷静に怒りの感情を表していこうと思います。
願誉浄史さん、ご回答ありがとうございます。
怒ることそのものも、控える様心がけないといけないのですね。確かに、怒らなければそもそもモヤモヤ考える必要もないですものね...
他人から変なアプローチを受けた場合でも、感情に支配されず、論理的に返せるように意識していきたいと思います。