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住民票を変えようと思います。

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先週警察署にいき、戸籍の閲覧制限に関して相談しました。聞いてくれた人は女性警察官で僕の話をよく聞いてくれました。
途中から閲覧制限とか、どうでもよくなって絞り出すように過去の話をするって感じになってました。
実際閲覧制限できるかはわかりません。
警察官は「データベースにあなたの話を記録しておくから、役所にいってここでのことをいってね。そうすれば相手もわかるから」と言ってくれましたが。
今度役所いったときにたとえ閲覧制限できなくても住民票を変えようと思います。もしできなかったら、両親は僕の居場所がわかるので、向こうから会いに来ると思います。
これは警察官のアドバイスですが、玄関まできたらチェーンをかけて開けきらない、外でつかまとわれたら警察を呼ぶなどを実践しようかと思います。
正直不安です。できるがどうか。閲覧制限できればいいですが、今のところはそれができなかったときのことを想定して考えてます。
本人達に気持ちをぶちまけたいですけどね。


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お坊さんからの回答 1件

回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。

親の為だけの人生ではありません

世の中親の為に頑張っている方もおられますが、それは子供のサガなのかもしれません。
子供が親の期待に応えたい、と頑張るのですが、親の性格・人格とのバランスがうまく取れず、せっかくの期待に応えようという気持ちの努力もむなしくからぶってしまう。
親は親で子供をよくしようと「その人なりに・その親なりに」人間だれでも不完全ですから不完全ながらに愛情を注ごうとした。
ところが愛は愛のつもりでそそいでいても相手側にとってそれが愛と受け止められなかったり、時に感情が入りすぎて、目的が見失われたりすることが親子間では生じるものです。
その犠牲者たちは世の中に沢山存在すると思います。
どちらかがその親子ゆえの悲しきサガ、親子ゆえの悲しきズレを感じて互いの軌道修正を図る必要があると私は感じています。
およそ第一子という存在は、親にとって初めての子育てであるため不慣れなことも多く、だいたいが人為的な働きかけが多すぎて親の求め、親の理想、親の考えという影響を強く受けてしまうものです。
それが結果的に親のルールに縛れて、自分自身は精神的な自由を希求するゆえに矛盾が生じるのではないでしょうか。
だからこそ、その親子間という互いに求めてもズレあってしまう関係をぶつかり合わせないためにも、精神的な独立、自由をもとめることは間違っていません。
あなたの心が立ち直るためには親との上手な心の距離を見つけることであると思います。
受験勉強中に耳元で一日中流れているラジオがあったら壊してしまいたくなるのは当然です。同じようにあなたも親御さんから離れて、上手な距離感を見つけられてはいかがでしょうか。
手紙をだされるなどして、誤解をされないようにすることをおすすめします。

落ち着いたら、自分が親を過剰に意識しなくなっているご自身をよく見つめて、実際の親と心の中で思い描いていた親とが別存在であることをよく認識なさってください。
人は、自己の想念によって自己をいたずらに苦しめます。
それが人類共通の苦しみなのです。
その自己の想念からの自由をもとめて住民票、こころの@アドレスを想念の世界から、五感や自分の思いの影響をうけていないまっさらな事実に移すことを出家、出家的生き方と言います。
あなたをはじめ、親子間で苦しんでおられるすべての方々がこの回答によって自由になられることをご祈念申し上げます。

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有り難し
おきもち

お悩み相談08020659278
今月の法話 文殊の剣 ❝己がそのものを観ていながらそこに余計な色や思いをつけたさぬその己の様子を「こそ」見届けてみてください。❞(本文より) 「大丈夫、慧の剣を取る。」 大いなる菩薩や老師は智慧の剣を取って、人の迷いの見解を断ち切り真実の姿をみせてくださいます。 智慧の剣とは人間の自我、我見の無いこころからなる、無垢で清らかなる「事実の様子」「本来の様相」を見極める力ともいえましょう。 それこそが智慧の剣なのです。 文殊とは自己を鎮め得た者の姿。 人間の内なる思慮分別の猛獣を修め得て、その上に鎮座する姿。 事実を事実のとおりに見るということは、余分なものがないということです。 そこに現れる余分な見解というものを断ち切った姿。 そもそも、もともと一切の事象、事実というものには余分なものはありません。 とは言えども、それでも人は人の習癖・習慣的に物事に思いをつけたす。 いまや「写真で一言」という要らぬ添え物をするバラエティ文化もあるぐらいですから、ものを本当にそのままに受け取るということをしない。 文殊様の持つ剣、智慧の剣というものは、そういう人間の考えを断ち切る働きを象徴したものです。 その文殊の剣とはなにか? お見せしましょう。 いま、そこで、みているもの、きこえていること。 たとえ文字文言を観るにしても、そのものとして映し出されているという姿がありましょう。 文字として見えているだけで意味を持たせてもいない、読み取ってもいないままの、ただの文字の羅列のような景色としてみている時には、文字であっても意味が生じません。 本当にみるということはそこに安住しています。他方に向かわない。蛇足ごとが起こらない。 見届けるという言葉の方が適しているかもしれませんね。 ❝己がそのものを観ていながらそこに余計な色や思いをつけたさぬその己の様子を「こそ」見届けてみてください。❞それはものの方を見るというよりはそれを見ている己を見つめる姿ともいえましょう。 そういうご自身のハタラキ・功徳に気づく眼を持つことです。 あなたの手にはすでに文殊の剣がありますよ。用いることがないのはもったいないことですね。

質問者からのお礼

あの人たちは自分を疑うということを知って欲しいですね。突き詰めてけば自分がどういう人間かわかると思いますけどね。
手紙に関しては父親には独り暮らしすること、探さないで欲しいということを既に書き置きをおいてます。
母親のほうもそーですね。そういう書き置きを残すべきかとおもってます。
妹には謝罪したいことがあります。そういう手紙を残そうかと思います。

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