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不幸が続くことについて

回答数回答 3
有り難し有り難し 289

自分にとって大切な物を次々と失っていくのですが、私の行いが悪いからでしょうか?

2013年に飼い犬(15歳)が死にました。(私には犬はすごく大切なものです)この犬は癌でしたので看病もし死自体には後悔や苦痛はありませんでした。ちゃんと送ってやれたという気持ちだけです。

2014年に30年ほど付き合った人が倒れ籍が入っていなかったため音信不通です。(会社の人とかの情報で死んではいません)74歳。

2015年8月に従妹(53歳)が死亡しました。突然の死でした。ただ、深い付き合いはなく、30年位音信不通で昨年くらいに従妹から連絡があったくらいです。
そして、2015年10月15日、母(88歳)が病院で亡くなりました。
先月から圧迫骨折で入院し、今月末には退院する予定でした。
認知症も発症していて、入院前から日常生活もだんだんできなくなり食も細くなっていました。
突然、容態が悪くなり、心臓は動いているが呼吸していない状態になりました。以前から、延命はしないと家族で話し合っていましたので医療者から「あとは時間の問題です」と言われ呼吸器を外しその後亡くなりました。
苦しまず安らかだったのが救いです。

一人を除き、皆、高齢ですので寿命と考えることもできるのですが、とにかく、私の周りで毎年大切なものが失われていきます。

私の生き方が悪かったからなのでしょうか?
(私は因果とかを信じないのですが)

因果とかではなく、偶然だとしたら、こういう事態をどのように受け止めていけばいいのでしょうか?

アドバイス お願いいたします。

ご回答いただいてすぐにお礼ができないと思います。
というのは、明日から帰郷します。
ガラケ―使用でサイトに入れないと思います。
ご回答を読むこと自体、遅くなりますがよろしくお願いいたします。


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お坊さんからの回答 3件

回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。

心の中で❝失い❞を持っていませんか

本当の本当のところは、それは不幸ではなく、一事実なのです。
不幸不運とは、私的な失われ。
一事実とは、公的な出来事。
人が逝く、犬の寿命が尽きる。
これは避けられない、当然の事です。
私は、先程、寺の境内で雨で濡れたコケで滑って転倒して、腰を強打し寝たきりになっています。オマケに子供の風邪をうつされ※舞子ハーンになっているのどすえ。(※←マイコプラズマの意と思われる)
ですが、私がそこで凹んだり、苦しんだりしません。
生老病死苦から解脱をしているからです。
それはどういうことかというと、そこに喪失意識や被害者意識を持ち込まない事なのです。
人が苦しむ原因が、自分の喪失感、ネガティブ意識によるものだと仏教によって気づいているからです。
だから、一事実に自分を苦しめる自分の喪失意識を添えない。
亡くなったら亡くなったという公的な事実。
それを自分を中心に眺めると、私的な失われとなるから、どんどん苦しくなる。
今も関わりは続いている。死んだは死んだにせよ、決して、失われたのではなく、一事実。
自分を中心に物事を観ると、人が亡くなった事実が「自分の〇〇が自分から失われた」という目線になるのです。そこを明らかにしてみてください。
それが出家、出道、出離なのです。
出家とは頭を丸めることではありません。
自分が物事を自分を中心とした見方を離れる事が出家の真意です。
多くの方がここを誤解しておられると思います。
あなたが頭を丸めて出家していたとします。
そこで、不運に見舞われ苦しみを持たれたら、それは出家しているのにもかかわらず、自己に苦しめられている姿です。
僧形でなくとも出家、出離の心は会得することができます。
目線を変えるというものでもなく、諦めるという事でもありません。
この「わたくし」という自分意識を中心とした見方を離れる事。
喪失感、失い、終局を無くする事こそが仏道です。=人間の考え、概念で物事を眺めない。
現在あなたは、概念で物事を眺めておれられるから苦しい。
自分の考えを通さずに、一事実として受け止めてみてください。
それが、心の中で❝失い❞を持たない仏陀の生き方なのです。
生老病死、解脱というのは、自分の思いから外れた生き方です。
ぜひ、これを機縁として、生きながらにその道を成し遂げてみてください。
その支援のために我々は存在しているのですから。

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有り難し
おきもち

思い知らされる

 こんにちは。立て続けのお別れ、さぞかし心痛もあろうかと思います。
 さて、「私の行いが悪かったのでしょうか」については、願誉浄史師の仰るとおり、「悪いのではなく、それは長く生きてきたのですから自然なこと」だと思います。それ以上でも、それ以下でもありません。
 私から蛇足ながら付け加えることは、「過去に原因を求めるより、いま(この一連ことから)何に気づき、何を学ぶのだろうか、ということに目を向けて頂きたいのです。
 みな、頭では分かっています。「生あるものはいつか死ぬ。形あるものはいつか壊れる」と。いま、それを目の当たりにして、言葉で聞いてきた事が真実であったと、思い知らされたところであろうと思います。いうなれば、みんな「生きているものは、いつか死ぬのだよ。形あるものは、いつか壊れるのだよ」ということを、あなたに見せてくれた、見せつけてくれたということです。
 となれば、僭越ながら「学ぶべきこと」とは、あなたご自身がいつか、病か事故か老衰か、分かりませんけれど、この世を去る時が来るという事でしょう。厳然とした事実です。
 それを思い知った人生と、そうではない人生は、かなりの差があると思っています。「今までの行いが良かった・悪かった」という形でケリをつけるのではなく、そのことを抱えながら生き続ける、その出発点となる出来事であったのではないでしょうか。きっと、「一期一会」などという言葉の重みも、変わってくる筈です。

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有り難し
おきもち

一般大学(一般的でもないが…)から大正大学の史学コースへ。そののちお寺。坊...
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あなた自身がそういう年代になってきたから

特に不幸なことではなく、それが普通のできごとです。
すべてはかならず壊れてゆきます。
長く建っていれば、建物だってあちこちガタがきますからね。
あなたという建物には、犬という窓ガラス、友人という瓦、親戚という外壁など、たくさんの部品があります。
建物自体が築50年以上なのだとしたら、付属している部品や、中にある家具や電化製品も、壊れるものが出てくるのが普通なのです。
でも、私達は、壊れないテレビはないと知っていても、突然テレビが映らなくなるとムカつくのです。
私達人間がバカでガキだから、普通に起きる自然現象を普通にありのままに受け入れられないのです。究極のオトナである仏様なら、現実をあるがままに受け入れられるのですが。
仏教的には、諸行無常を受け入れたほうが心が平安になると考えます。
日本人は「エンギが悪い」とか言って、死や病を事前には考えたがらないですが。

すぐに消えてしまう、なかなか存在しないものだから、有ること難し、有り難し、ですね。

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有り難し
おきもち

がんよじょうし。浄土宗教師。「○誉」は浄土宗の戒名に特有の「誉号」です。四...
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質問者からのお礼

ありがとうございます。 葬儀までの間、少し間があったので読みながら色々考えてみました。
いずれのご回答も心に沁みるものでした。

今をしっかりと生きなければ。
「物事を自分を中心とした見方を離れる事が出家の真意」  仏道に入らなくても出家はできるのですね!
出家まではいかなくても自己中心的な物の見方が少しでもなくなるよう努力したいです。

温かい気持ちになるお坊さん説法まとめ