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3人目、、、

回答数回答 1
有り難し有り難し 33

馬鹿けた悩みを聞いてください。
現在子どもが2人おります。1歳半と4歳の男の子です。
そろそろ3人目が欲しいと思うようになりました。私自身結婚前は子どもは3人欲しいと決めていました。なので3人欲しいです。
しかし、男の子2人、、、3人目も男の子の確率が高いと思います。正直女の子が1人くらいは欲しいです。
男の子は将来的に見て、お嫁さんのものになるし、私も家庭で女1人ってなぜか寂しく感じそうで怖いです。まだまだ小さいので先のことを考えるのは早いかもしれませんがいずれその時が来ます。
私自身は姉と弟がいます。私は姉のことが好きで今でも仲良くしています。弟は姉妹の下で育ったからか、性格が大人しく、優しいです。私も
本当は姉妹が理想でした。自分の兄弟のような関係が理想だったのかもしれません。
こんなことは誰にも言えません。もちろん主人にも言えません。言ってはいけないことだと思います。
本題に戻りますが次がまた男の子だと思うと中々踏み切れません。
でも3人目諦めたくない。年齢的にもまだ余裕はありますが、若いうちに産んだほうが身体も楽だと言うことは理解しています。
また私の旦那さんの兄弟も子どもがいますが、みんな男の子です。男系なのかと思います。
旦那さんのお父さんには女の子が欲しいと一度だけ言われました。プレッシャーもあるのかもしれません。
文書がバラバラですみません。
3人目踏み切らないほうがいいと思いますか?
一人でこんな事で悩んで、どうしたらいいかわからないのでこちらで相談させてもらいました。


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お坊さんからの回答 1件

回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。

子供をわがものにしない心になってこそ真の母親

文書からすると自分中心な気がします。
こどもって親の都合のいい存在ではないのではないでしょうか。
厳しいようですが、母親が陥りやすい心理なので子供を持つ、授かる以前に早めに目を覚ますべきかと思います。
自分があらかじめに「こうしたい」「こうだとよい」「こうあるべき」という考えはこの世においては全く通用しない考えです。
むしろ、そういう思いがあなたを一番ずっと苦しめ続けてきたことを振りかえってみましょう。
この世に「私の」「私が」「マイルール」が盛んにならないようにしましょう。
自分を完全になくすということではありません。
物事に対して「❝自分の❞姿勢」「❝自分の❞ルール」があればあるほど、人間はそれに乗っ取られて思い通りにならんことで苦しみになるのです。
あなたの中ではあなたの意見と反することを申し上げましたのであなたはカチンと来るような気持ちで聞く耳持たないと思います。あえて、そういう回答をしました。
あなたの中の「わたくしルール」「わたくし意識」に目を向けていただくためのお話でした。
それが強いと坊さんの助言ですら「聞く耳持たなくなる」のです。
そこに気づいてから、もう一度読み返すとこの回答は薬効成分が増します。
母親は子供に対する母親のサガを自覚して、そこに縛られなくなってこそ真の母親であろうと思います。
小さな母親精神から脱皮して大きな母になってください。
それが子供の一番の幸せであり、孝行する子供になる最上の道だからです。
子供が寄り付かなくなる母親のタイプは子供を我が物感覚で子供の尊厳を認めない、所有意識の強い母親です。それをやめれば結果的に子供は母親を大事にするようになるのですから、三人目の子供を持つかどうかより、わたくしする気持ちを和らげる方がベストであろうと思います。まずはご主人に感謝し、子供にも感謝し、私が私の幸せを完結させて幸せになる、という幸せではなく、親子、夫婦の関係性で幸せになることではないでしょうか。
遠くの幸せのカタチを求めると、今の目の前の幸せが色あせるものです。

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有り難し
おきもち

お悩み相談08020659278
今月の法話 文殊の剣 ❝己がそのものを観ていながらそこに余計な色や思いをつけたさぬその己の様子を「こそ」見届けてみてください。❞(本文より) 「大丈夫、慧の剣を取る。」 大いなる菩薩や老師は智慧の剣を取って、人の迷いの見解を断ち切り真実の姿をみせてくださいます。 智慧の剣とは人間の自我、我見の無いこころからなる、無垢で清らかなる「事実の様子」「本来の様相」を見極める力ともいえましょう。 それこそが智慧の剣なのです。 文殊とは自己を鎮め得た者の姿。 人間の内なる思慮分別の猛獣を修め得て、その上に鎮座する姿。 事実を事実のとおりに見るということは、余分なものがないということです。 そこに現れる余分な見解というものを断ち切った姿。 そもそも、もともと一切の事象、事実というものには余分なものはありません。 とは言えども、それでも人は人の習癖・習慣的に物事に思いをつけたす。 いまや「写真で一言」という要らぬ添え物をするバラエティ文化もあるぐらいですから、ものを本当にそのままに受け取るということをしない。 文殊様の持つ剣、智慧の剣というものは、そういう人間の考えを断ち切る働きを象徴したものです。 その文殊の剣とはなにか? お見せしましょう。 いま、そこで、みているもの、きこえていること。 たとえ文字文言を観るにしても、そのものとして映し出されているという姿がありましょう。 文字として見えているだけで意味を持たせてもいない、読み取ってもいないままの、ただの文字の羅列のような景色としてみている時には、文字であっても意味が生じません。 本当にみるということはそこに安住しています。他方に向かわない。蛇足ごとが起こらない。 見届けるという言葉の方が適しているかもしれませんね。 ❝己がそのものを観ていながらそこに余計な色や思いをつけたさぬその己の様子を「こそ」見届けてみてください。❞それはものの方を見るというよりはそれを見ている己を見つめる姿ともいえましょう。 そういうご自身のハタラキ・功徳に気づく眼を持つことです。 あなたの手にはすでに文殊の剣がありますよ。用いることがないのはもったいないことですね。

質問者からのお礼

とても心に響きました。画面を保存させていただきました。
私自身まだまだ子どもっぽいところがあり、ダメな母親です。
しっかり目を覚まさせていただきました。
ありがとうございました。

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