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友達の死

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有り難し有り難し 28

今日、友達が病気で亡くなりました。

1ヶ月前にカラオケに、1週間前には名古屋に大道芸を見に行ってました。
なのに、急に昨日の夕方に心臓病の発作で意識を失い、心肺停止になり、一度は復活したものの、今日の3時過ぎに急変して亡くなりました。
急なことでショックが大きくて、辛すぎてどうしたらいいかわかりません。

お通夜と葬式に出て欲しいと家族の方に言われましたが、私が行くことで元気に遊びに行っていたことを思い出し、余計に辛い思いをさせてしまうのではないかと悩んでいますどう思いますか?


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お坊さんからの回答 2件

回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。

どうぞ思い出をお話に行ってください

亀山純史と申します。私自身の個人的な思いを書かせていただきますが、少しでも参考になれば幸いです。

ご家族の方からあなたにお通夜と葬儀に参列してほしいという申出があるならば、是非、参列してはどうでしょうか。
なぜ、ご家族の方はあなたの参列を望まれているのでしょうか。もし、あなたがお通夜に参列すれば、ご家族の方は「(故人の名前)ちゃん、(あなたの名前)ちゃんが来てくれたよ。」と故人に語りかけるでしょう。それは故人の親しかった友人に、故人の思い出を語ってほしいからではないでしょうか。ご家族の方は、今はもう語ってくれない我が子どもに代わって、故人の思い出を話してくれる人を求めているのだと思います。もちろんご家族と故人の間にも多くの思い出があることでしょう。でもご家族の方は、それ以上の思い出を聞きたいのではないでしょうか。故人に対して、そのご家族以上に愛情を注いだ人はいないことでしょう。しかし、ご家族の方は、自分の子どもが家族以外の人からも愛されていたことを実感したいのではないでしょうか。人は思い出が深いほど、悲しみも深いものです。しかし、その悲しみを少しでも癒してくれるひとつは、故人がどんなに他の人から愛された人生を送っていたかを知ることだと思います。

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有り難し
おきもち

hasunohaを訪れてくれた皆さん、こんにちは。私は浄土真宗本願寺派の僧侶です。令和6年3月に、公立高校の教員を勧奨退職しました。その後、縁あって、令和6年4月からは「まちサポ雫石」というNPO法人のお手伝い、また、令和6年10月からは公立高校の非常勤講師をしています。 浄土真宗における僧侶は、仏さまの教えに生き、その教えを伝える者であり、人を悩みから救う能力を有した者ではありません。人の悩みを救う救いの主は阿弥陀さまです。ですので、hasunohaにおける私の回答では、仏さまの教えに救われているこの私の生き方、考え方を、皆様にお見せするだけです。そして私自身、お答えできるご相談の範囲はそう広くはありませんが、皆様のお役に少しでも立てればと思い、回答させて頂いております。

あなたが行くことで親御さんの悲しみをやわらげてくれます

親にとっては、仲良くしてくれた友達は本当にありがたい存在。
何年たっても、その子の素晴らしい所を親御さんに伝えてあげてください。
それが、彼女に代わって、彼女の親御さんに彼女の存在を感じさせてくれる暖かさになります。
あなたが、大人になっても、彼女との出会いが嬉しかったことを時々でいいからお手紙や、ご自宅を訪ねて親御さんにお伝えしてあげてください。

人の心の中には、その人を思う気持ちが宿ります。
その人を想う気持ちがそれぞれの人の中で、思い起こされます。
それを霊と言います。
その現われ方、映し出され方は、人によってさまざま。
その人が亡くなった後も、私たちの心の中には、思いが起こりますから関わりだけは永遠なのです。私も友人が数人無くなっていますが、今も関わり合いは心の中で続いています。
「より良く関わり合う事」
自分をより高い心に目覚めさせてくれる存在として、敬い、尊重する事。
それがあなたと彼女の今後の友情です。
あなたの心の中の彼女が安らかでありますよう、祈っております。

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有り難し
おきもち

お悩み相談08020659278
今月の法話 文殊の剣 ❝己がそのものを観ていながらそこに余計な色や思いをつけたさぬその己の様子を「こそ」見届けてみてください。❞(本文より) 「大丈夫、慧の剣を取る。」 大いなる菩薩や老師は智慧の剣を取って、人の迷いの見解を断ち切り真実の姿をみせてくださいます。 智慧の剣とは人間の自我、我見の無いこころからなる、無垢で清らかなる「事実の様子」「本来の様相」を見極める力ともいえましょう。 それこそが智慧の剣なのです。 文殊とは自己を鎮め得た者の姿。 人間の内なる思慮分別の猛獣を修め得て、その上に鎮座する姿。 事実を事実のとおりに見るということは、余分なものがないということです。 そこに現れる余分な見解というものを断ち切った姿。 そもそも、もともと一切の事象、事実というものには余分なものはありません。 とは言えども、それでも人は人の習癖・習慣的に物事に思いをつけたす。 いまや「写真で一言」という要らぬ添え物をするバラエティ文化もあるぐらいですから、ものを本当にそのままに受け取るということをしない。 文殊様の持つ剣、智慧の剣というものは、そういう人間の考えを断ち切る働きを象徴したものです。 その文殊の剣とはなにか? お見せしましょう。 いま、そこで、みているもの、きこえていること。 たとえ文字文言を観るにしても、そのものとして映し出されているという姿がありましょう。 文字として見えているだけで意味を持たせてもいない、読み取ってもいないままの、ただの文字の羅列のような景色としてみている時には、文字であっても意味が生じません。 本当にみるということはそこに安住しています。他方に向かわない。蛇足ごとが起こらない。 見届けるという言葉の方が適しているかもしれませんね。 ❝己がそのものを観ていながらそこに余計な色や思いをつけたさぬその己の様子を「こそ」見届けてみてください。❞それはものの方を見るというよりはそれを見ている己を見つめる姿ともいえましょう。 そういうご自身のハタラキ・功徳に気づく眼を持つことです。 あなたの手にはすでに文殊の剣がありますよ。用いることがないのはもったいないことですね。

質問者からのお礼

亀山さん、丹下さん、回答ありがとうございました。
二人の回答を見て、お通夜も葬式も参列することに決めました。
今日友達の母親に「葬式の時に何か言って欲しい。」と電話で言われました。
彼女も自分も体調の良い時に遊んだ思い出をたくさん話、彼女にしっかりとお礼を言いたいと思います。
これからも彼女の家族とは今まで通り仲良くさせてもらうので、いろいろと思い出話もできるようになればと思います。
本当にありがとうございました。

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