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野球を続けるかどうか

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こんにちは。

先日わたしは大学野球を引退しました。
最後の試合で先発したのですが、悔しい結果に終わってしまいました。

ただ自分の能力が通用しなかったのではなく、大一番で緊張して
力を発揮できませんでした。

ここであきらめたら多分後悔することになると思い、クラブチームで野球を続けようと思います。

そこで親に報告したところ、「いつまでもしがみついてるだけ、諦めることも大切。」と反対されました。

ここまで野球を続けてこれたのも親のサポートのおかげなので、親の意見をないがしろにはできません。

しかし、わたしは野球を続けたいです。どうしたらよいでしょうか。
よろしくお願いします。


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お坊さんからの回答 2件

回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。

野球をやりながら野球をやるのではないっ…

野球をしながら「自分」をやることを目的とされてはいかがでしょう。
「自分道」の為に野球をやる。己を極めんがための道とするのです。
野球でイイ結果とか、いいポジションに就くことは二の次。
「自分で、自分の、そこの、✨サイコー✨を、全うする。」そのためにっ。
自転車だって、歩くことだって、✨サイコー✨はあるっ。
「俺は、俺は、今日もやり抜くッ、今日も燃やすぜッ!アツくなれ!俺の尻っ!温めるてやるぜっ!このベンチをな!いつか、溶かしてやるッ!」というくらいの万年ベンチ組になっても屈服しない精神があれば「わたくし欲」「かちまけ欲」「かっこつけ欲」が無くなって百パー力を発揮できるようになります。つまり、相手や他人がいなくなって、純粋に自分道をやり続けるだけだからです。
オトナはすぐ他人を意識します。結果を意識します。7、80過ぎたおじーちゃんが突然に何かに凝り始めた全然いい結果を出せないにしても、そのおじいちゃんの中ではモエているのです。「わ、わしゃ、この一球にすべてをかけちょる…!」(ゲートボール)

野球をやめてもやり続けても、恋をしても、勉強をしても、そこにあり続けるのはこの自己。自分。人生の最大の目的とは、この自己の心身というロボットを上手に扱い、乗りこなすことなのです。(ロボじゃないですが)
たとえば私はギターをやりますが、ギターがそのまま自分道なのです。
心と体とテクニックと顔が完全同期。
「いいかね、君たち。君たちは勉強が面白くないというかもしれない。だが、君たちは英語や国語を学ぶのではない。英語や国語で何を学ぶかだ。」
            👓🐼  !(゜o゜;) ガチョーン
👓🐼「くぼっち、君は野球をやるのかね!?それとも野球を通して自分自身をやるのかね。」
仏道というは自己をならうなり。

ここで道元禅師の言葉をわかりやすくアレンジしますと、
「野球をならうということは自分をならうことである
 自分をならうとは野球も自分もわすれて球になりきることである。
 球も自己も忘れるとはそこに居ながらそこに居る自分もなくなって野球に自己が野球せられるなり。その時、野球はもはや野球ではなく、真実そのものなり。
自己の完全燃焼、自己の生命の輝きなり。今を完全燃焼なり。
人は評価に迷い苦しむのです。今という試合中に評価をしながら試合すれば球も自分も見失います。

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有り難し
おきもち

お悩み相談08020659278
今月の法話 文殊の剣 ❝己がそのものを観ていながらそこに余計な色や思いをつけたさぬその己の様子を「こそ」見届けてみてください。❞(本文より) 「大丈夫、慧の剣を取る。」 大いなる菩薩や老師は智慧の剣を取って、人の迷いの見解を断ち切り真実の姿をみせてくださいます。 智慧の剣とは人間の自我、我見の無いこころからなる、無垢で清らかなる「事実の様子」「本来の様相」を見極める力ともいえましょう。 それこそが智慧の剣なのです。 文殊とは自己を鎮め得た者の姿。 人間の内なる思慮分別の猛獣を修め得て、その上に鎮座する姿。 事実を事実のとおりに見るということは、余分なものがないということです。 そこに現れる余分な見解というものを断ち切った姿。 そもそも、もともと一切の事象、事実というものには余分なものはありません。 とは言えども、それでも人は人の習癖・習慣的に物事に思いをつけたす。 いまや「写真で一言」という要らぬ添え物をするバラエティ文化もあるぐらいですから、ものを本当にそのままに受け取るということをしない。 文殊様の持つ剣、智慧の剣というものは、そういう人間の考えを断ち切る働きを象徴したものです。 その文殊の剣とはなにか? お見せしましょう。 いま、そこで、みているもの、きこえていること。 たとえ文字文言を観るにしても、そのものとして映し出されているという姿がありましょう。 文字として見えているだけで意味を持たせてもいない、読み取ってもいないままの、ただの文字の羅列のような景色としてみている時には、文字であっても意味が生じません。 本当にみるということはそこに安住しています。他方に向かわない。蛇足ごとが起こらない。 見届けるという言葉の方が適しているかもしれませんね。 ❝己がそのものを観ていながらそこに余計な色や思いをつけたさぬその己の様子を「こそ」見届けてみてください。❞それはものの方を見るというよりはそれを見ている己を見つめる姿ともいえましょう。 そういうご自身のハタラキ・功徳に気づく眼を持つことです。 あなたの手にはすでに文殊の剣がありますよ。用いることがないのはもったいないことですね。

タイムリミットを決めて

人生設計を考え、タイムリミットを決めて挑戦してみてはどうでしょうか?
親御さんに具体的なタイムリミットを提示することで、安心してもらえないでしょうか?

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有り難し
おきもち

がんよじょうし。浄土宗教師。「○誉」は浄土宗の戒名に特有の「誉号」です。四十代男。 仏教は、悩み苦しみを制御したり消したりするための教えです。まだまだ未熟者の凡夫ですがよろしくお願いします。

質問者からのお礼

回答ありがとうございます。
自分を極めるために野球をやる、この気持ちを大切に頑張りたいと思います。
両親にもこの気持ちと、いつまでやるのかをしっかり伝えて安心してもらおうと思います。

温かい気持ちになるお坊さん説法まとめ