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悉く選択を誤り続けて来た

回答数回答 4
有り難し有り難し 45

人生の分岐点であったり、様々な選択を迫られる中で、悉く失敗の道を選んでしまう自分。

誰のせいでも何のせいでもなく、全て自分で選んだ道とは言えど、外れクジばかり引き当ててしまうのは

私の生まれ持った性質なのでしょうか

それとも
気の持ち様なのでしょうか

はたまた
努力不足なのでしょうか
単なる
被害妄想なのでしょうか


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お坊さんからの回答 4件

回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。

頑張りすぎないで。

よほど悔しい思いを味わってきたのでしょうね。
ご苦労様です。
しかし、ラッキーと思えばすべてがラッキーに見えます。
たくさんの選択を間違ったにもかかわらず、今、ちゃんと生きているわけですから、かなりラッキーなのです。
野性動物なら、失敗は死につながりますからね。
あなたが努力不足だったとしたら、努力していない時間に、何か楽しいことをしていたのではないでしょうか。
些細な楽しみをたくさん味わって生きて来られたのだから、充実した人生だと思ってはどうでしょうか?
努力したら努力したなりの結果が出るし、努力しなかったらその代わりに楽しいことがあったろうし、どちらでもよいのです。
仏教で努力すべきは、仏教の修行のみ。
それ以外の世俗のことは、適当でよいのです。
頑張りすぎないでくださいね。

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おきもち

がんよじょうし。浄土宗教師。「○誉」は浄土宗の戒名に特有の「誉号」です。四十代男。 仏教は、悩み苦しみを制御したり消したりするための教えです。まだまだ未熟者の凡夫ですがよろしくお願いします。

ハズレ、当たりはもともと存在していない。

例えば柔軟剤を買ったとします。たくさんの種類の中から選びます。初めて買う時は、よくわからず、見本の匂いを嗅いで買うわけです。
しかし、使ってみるとあれ?あっちの方が良かったかな?失敗した!と頭の中で後悔がはじまります。
事実は、そこにそれがあるだけ それが香っているだけです。
当たりもハズレもない。あなたが思考で決めているだけです。
そうした思考を加えない生き方が、損得なく生きる方法です。過去に戻る事はありません。しっかり今をみてください。

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おきもち

個別相談可能
禅宗 曹洞宗 僧侶。神奈川県西部円通寺住職。小学校教師。 悩みを吐き出す事で、ちょっと楽になれます。悩みの根本に気づき、明るく爽やかに生きていきたいですよね。 私自身、禅との出会いにより救われた一人です。皆様に少しでもお伝え出来たらと思います。 人は自分の都合を立てて物事に向き合うところがあります。私の回答も期待していたものと違うことがあるかもしれません。その時に素直に聞けるか、回答の内容を否定的に聞くかで救われるかどうかが変わります。疑問は出てくると思います。その時はご相談ください。
ご相談時間は不定期なので、いくつかご都合を教えてください。 ◆小学校教員もしています。子供、家族、ご自身のことお話をお聞きします。 ◆禅のおかげで私も救われました。禅の教えを基に「思い通りにしたい」という自分の都合や価値観から生まれた思い込みをほぐしていくお手伝いをします。 ◆仏教は人生を豊かにしてくれることを感じてくだされば嬉しく思います。

Wチャンスがありますように。

こんばんは。
ハズレの要因は環境、気の持ち方、努力、考えすぎ、いろいろなことが絡み合ってると思います。
あるいは、もともと当たりの確率が低いところを選んでしまうことが多かったのかもしれないですね。

煩悩をダメなものでなく、悟りの種と教えられた身としては、、
今まではハズレくじと思う人生だったかもしれませんが、
マイナスではなくプラスに転じる可能性もゼロじゃないかも。。

何が足りなかったからハズレくじになったのか。
何を補えていないからハズレくじのままなのか。
ちょっとハズレの法則がわかればそれを避けるパターンも知ることができるかもしれないですね。

あるいは、
どこかの段階までは良かったけど、一度ケチがついただけでハズレくじになってしまうのか。
ハズレくじをすぐ捨てるんではなく、観察してみれば、当りの確率は高くなるんじゃないでしょうか。

ハズレくじばかりだけど命まで奪うクジに当たったことはない。
その点は良かったんじゃないでしょうか。

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有り難し
おきもち

hasunohaに出会えた私は幸せ者です。カニとおろし蕎麦と水ようかんが美味しい地方の町のお寺にいます。人混みは苦手、都会のイルミネーションやサイネージはまぶしすぎる。だけど、ここhasunohaでの対話があるから孤独じゃない。ありがとう。
社会福祉士、公認心理師として社会では働いてます。事業や組織を背負うと言えないこともあるけど、仏教を背負うと語る内容も変わります。悩みがなくても話してみたいときは相談ください

自分が失敗にさせている 自分がハズレに❝させて❞いる

もともとハズレはありません。
どっちに転んでも、それはそれ。そっちはそっち。
失われたことを嘆くよりも、今手にしているもので幸せになるべきです。
人間は選択の連続です。
2秒に1回くらい選択しているといわれています。
私もこうして文章を打っていながら、無限の選択をしている訳です。
さて、何と言おうか。
あ、また邦元師が自分と回答カブってる。
(ん?どこかで見た回答だぞ?)
やれやれ、答えずらいな、さて、答えるべきか、他の人に答えてもらうべきか。
とりあえず、別のスタイルで回答しよう。
あ、ご飯が炊けた、食べるべきか、後にすべきか。
床が汚れているな、掃除すべきか、また、子供が汚すから後にするべきか。
無限の選択の意連続なのです。
こうした方が良かった、ああした方が良かった、と思うのも実は選択です。
これでよかった、これでいいのだ、これでいいのだ、とバカボンみたいに口にしてみてください。
あなたは後悔という選択をしているのが分かるはずです。
それは否定を言う選択、うち消しという評価の仕方を選択しているのです。
「これでよかったじゃん」という思い方の選択だってあるのです。
「失敗したけど、ハズレだったけど、まぁ、そこで何とかするしかないじゃん」という評価をするという、選択だってあるのです。
ハサミも選択も洗濯バサミも用い方次第で、キレある人生に変わります。
あなたが誤ったのは洗濯ではない。
評価の選択を誤っているから心がオチているだけなのです。

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有り難し
おきもち

お悩み相談08020659278
今月の法話 文殊の剣 ❝己がそのものを観ていながらそこに余計な色や思いをつけたさぬその己の様子を「こそ」見届けてみてください。❞(本文より) 「大丈夫、慧の剣を取る。」 大いなる菩薩や老師は智慧の剣を取って、人の迷いの見解を断ち切り真実の姿をみせてくださいます。 智慧の剣とは人間の自我、我見の無いこころからなる、無垢で清らかなる「事実の様子」「本来の様相」を見極める力ともいえましょう。 それこそが智慧の剣なのです。 文殊とは自己を鎮め得た者の姿。 人間の内なる思慮分別の猛獣を修め得て、その上に鎮座する姿。 事実を事実のとおりに見るということは、余分なものがないということです。 そこに現れる余分な見解というものを断ち切った姿。 そもそも、もともと一切の事象、事実というものには余分なものはありません。 とは言えども、それでも人は人の習癖・習慣的に物事に思いをつけたす。 いまや「写真で一言」という要らぬ添え物をするバラエティ文化もあるぐらいですから、ものを本当にそのままに受け取るということをしない。 文殊様の持つ剣、智慧の剣というものは、そういう人間の考えを断ち切る働きを象徴したものです。 その文殊の剣とはなにか? お見せしましょう。 いま、そこで、みているもの、きこえていること。 たとえ文字文言を観るにしても、そのものとして映し出されているという姿がありましょう。 文字として見えているだけで意味を持たせてもいない、読み取ってもいないままの、ただの文字の羅列のような景色としてみている時には、文字であっても意味が生じません。 本当にみるということはそこに安住しています。他方に向かわない。蛇足ごとが起こらない。 見届けるという言葉の方が適しているかもしれませんね。 ❝己がそのものを観ていながらそこに余計な色や思いをつけたさぬその己の様子を「こそ」見届けてみてください。❞それはものの方を見るというよりはそれを見ている己を見つめる姿ともいえましょう。 そういうご自身のハタラキ・功徳に気づく眼を持つことです。 あなたの手にはすでに文殊の剣がありますよ。用いることがないのはもったいないことですね。

質問者からのお礼

有難うございます

どなたかの座右の銘にもある
生きてるだけで丸儲け とは
正にその通りで
失敗しても貧乏でも、生きていられる事が幸せであると。

私にはその潔さが欠如しているのかも知れません。

着眼点を変えてみれば、正しい選択だったと思える事もあるかも知れないのに、欲深さ故に
現状に満足出来ず、悲観してばかり。

たらればの呪縛から開放される為には、欲求レベルを下げる必要がありそうです

些細な生きている喜びを見つけながら、これで良かったと思える行き方したいです。

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