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すべての人が怖いです。

回答数回答 1
有り難し有り難し 14

今、辛いです。
でも私、
辛い時に辛いと素直に言える相手がいない。
だからここに言ってみました。
最近、周りがよく見えません。
視力ではなく、
人…すべての人のことが、
よく理解できなくなり、
すべての人が怖いです。
子供だけは、私のことを好きでいてくれてる。
でも、子供に辛い!は言っちゃいけない気がします。
病気でしょうか…
今まで、どんな生き方をしてきたら
こんなにも周りに誰もいない人生になってしまうのか…
私は、そんなに間違えた生き方をしてきたのでしょうか…

意味のわからない文になってしまいました。
本当にすみません。
変われる日が来るのか…
不安で仕方ないです。
助けてくださいと、誰かに言いたくて、
書かせていただきました。


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お坊さんからの回答 1件

回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。

辛いといって辛い心が軽減できるならば言いましょう。

私はカミさんにしんどい時は「ごめん、言ってるだけだからね。❝あー、●●●ー。❞」と言っています。
●●●には💀ワードも入ります。
min                      MAX
(疲れた、しんどい、痛い、かゆい、~ 氏ねばいいのに…)
思い切って言ってしまっていいのです。
これは、半分おふざけで言っているのです。
人間の心理って、本当に正直でツイッターに本音で書いている人たちのような心情は普通に生まれてくるのです。自分がやっているのではなく、この自身の自然な反応の一種ともいえます。だからと言って、それが推奨されるべきことではないですが、じゃぁ、言っちゃいけないのかといえば、言わないで我慢主義でがんになってしまう方もいるのですから、無理にいい人を演じる必要ゼロです。
ただ、愚痴になるとあまりよくないですです。本当にしんどい時にしんどい、疲れたっていっちゃいけないなんて道理はありません。純粋な人間の「真実の感想」なのですから。
口に出していいのです。そこで受け止めてもらえてすっきりした後は、もう心はきちんと現実に帰ってきているのですから、言ったって別にいいのです。「だから、ちょっと言わせてね、あー、こっの前ッのあれ、ホンットにまじ💀💀💀ー。」とか、口にしたって別にいいのです。(※ご主人への不満は旦那デスノートサイトにてよろ)ただし、それで自分が救われるのであればです。やっててむなしくなるとか、毒を口にして気分が悪くなるなら悪口めいたことはいわないほう自身の為ということがあります。
人が怖いのは嫌な人と接してしまっただけでしょう。自分の理想も高すぎてもダメです。
そこでその人が自分に合わんと思ったら無理して接しないこと、そしてかかわっていく人間を選択していくこと。それが大事です。人生の親友はよき理解者です。

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有り難し
おきもち

お悩み相談08020659278
今月の法話 文殊の剣 ❝己がそのものを観ていながらそこに余計な色や思いをつけたさぬその己の様子を「こそ」見届けてみてください。❞(本文より) 「大丈夫、慧の剣を取る。」 大いなる菩薩や老師は智慧の剣を取って、人の迷いの見解を断ち切り真実の姿をみせてくださいます。 智慧の剣とは人間の自我、我見の無いこころからなる、無垢で清らかなる「事実の様子」「本来の様相」を見極める力ともいえましょう。 それこそが智慧の剣なのです。 文殊とは自己を鎮め得た者の姿。 人間の内なる思慮分別の猛獣を修め得て、その上に鎮座する姿。 事実を事実のとおりに見るということは、余分なものがないということです。 そこに現れる余分な見解というものを断ち切った姿。 そもそも、もともと一切の事象、事実というものには余分なものはありません。 とは言えども、それでも人は人の習癖・習慣的に物事に思いをつけたす。 いまや「写真で一言」という要らぬ添え物をするバラエティ文化もあるぐらいですから、ものを本当にそのままに受け取るということをしない。 文殊様の持つ剣、智慧の剣というものは、そういう人間の考えを断ち切る働きを象徴したものです。 その文殊の剣とはなにか? お見せしましょう。 いま、そこで、みているもの、きこえていること。 たとえ文字文言を観るにしても、そのものとして映し出されているという姿がありましょう。 文字として見えているだけで意味を持たせてもいない、読み取ってもいないままの、ただの文字の羅列のような景色としてみている時には、文字であっても意味が生じません。 本当にみるということはそこに安住しています。他方に向かわない。蛇足ごとが起こらない。 見届けるという言葉の方が適しているかもしれませんね。 ❝己がそのものを観ていながらそこに余計な色や思いをつけたさぬその己の様子を「こそ」見届けてみてください。❞それはものの方を見るというよりはそれを見ている己を見つめる姿ともいえましょう。 そういうご自身のハタラキ・功徳に気づく眼を持つことです。 あなたの手にはすでに文殊の剣がありますよ。用いることがないのはもったいないことですね。

質問者からのお礼

お礼コメントが遅くなってしまい、すみませんでした。
人生の親友はよき理解者…
自分を理解してくれる人がいるって
素敵ですよね。
そんな人を探してみたいと思います。
もう、出会えないような気がしてしまうのは、よくないですよね。
有り難う御座いました。

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