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本質を見抜く力

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こんにちは。

仏教などの逸話を見ているとブッダ(ゴータマ・シッダールタ)が弟子などから質問を受ける場面が多くあります。
その時のブッダの返答というのはいずれもウェットに富み、なおかつ本質を突いた返答をしています。
なぜブッダはこのような本質を見抜く力を手に入れることができたのでしょうか。
もちろん脚色もあり、ブッダ自身が覚者だったからということもあるかもしれません。

私自身もこのような本質を見抜く力が欲しいです。
そこで私はそのような力を鍛えるために普段から以下のことを実践しています。

・既存の社会構造に疑問を持つ
・常識というものを疑う
・誰が発言したのではなく、どのように発言したかに注目する

これくらいしかしていませんが、他に本質を見抜く力を鍛えるいい方法はないでしょうか?
よろしくお願いします。


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お坊さんからの回答 2件

回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。

思考・個人的な思いという「おつゆ・汁」なしで。

こんにちは。
近所の牛丼家でいつも「玉子・汁ダクで。」と注文することから牛丼店で「ゴー玉・シルダクーデ王子」と呼ばれておりますウェットに富んだ僧侶、丼下玉子です。
何故❝ウェット❞に富んでいるか?というと、ある時、牛丼で玉子を買うのももったいないから、近所なので自宅から玉子を持っていたのですが、すっかり忘れてポケットの中で割れてしまいポケットの中が❝ウェット❞に富んでたそうです。(実話)
何故、吉野家によく行くのか?というと、子供が三人もいてワイフの家事負担を減らしてあげたいと思い「朝ごはん作ってくれなくていいよ♡」と言ったら本当に作ってくれなくなったからなのだそうです。今夜も涙で枕もウェット。釈迦のウィットとは程遠い分、レンゲと同じく人を「すくう」のがタンゲの仕事。
さて、なぜ丹下はこのような常軌を逸した行動をとったのでしょうか。
いえいえ、単に玉子代がもったいないと思ったからに違いありません。
これは脚色はなく、丹下自身が一本抜けた凡下だったからということもあるかもしれません。
私自身、このような間抜けた自分が「すき屋」くらい好きや♡です。
そのような愚かさから学んで普段から以下のことを実践しています。
・玉子は割れてもいいように、ビニール袋に入れていく。
・ゴミは持ち帰る。(その前に店に自宅玉子を持ち込むな)
・誰に見られているかではなく、どのように美味しく牛丼を頂くかに注目する。
その後私がたどり着いた境地は、シルだく、牛丼本来の味を損ねていたと悟り「ゴー玉・シルナシーデ王子」に昇格しました。はい、仏陀には程遠いですが。
さて、ものの本質、ものの根本、根源を見極めるのがまさしく「禅」です。
禅とは禅という文化、分野があるのではなく、自己の私見・我見のない様子です。
ものを見るのに人間は自己の想念フィルター越しに眺めるものです。
それなしに眺めること。
牛丼だって、シルだくですと、まっさらなごはんがべちょべちょになってしまって、もはやお茶漬け。スプーンで食べるものになってしまい、真の牛丼にはアラジン。
このように(どんなようにだよ)牛丼も牛丼本来の本質を見失われる前の様子こそ、シル無し牛丼なのです。
我々人間は思考というシルだく、つゆだく状態。
ものをみるに、きくに、ものに処するに、そこに思考のつゆだく・汁だく無きこと。
これぞものの本質をみる法眼なり。

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おきもち

お悩み相談08020659278
今月の法話 文殊の剣 ❝己がそのものを観ていながらそこに余計な色や思いをつけたさぬその己の様子を「こそ」見届けてみてください。❞(本文より) 「大丈夫、慧の剣を取る。」 大いなる菩薩や老師は智慧の剣を取って、人の迷いの見解を断ち切り真実の姿をみせてくださいます。 智慧の剣とは人間の自我、我見の無いこころからなる、無垢で清らかなる「事実の様子」「本来の様相」を見極める力ともいえましょう。 それこそが智慧の剣なのです。 文殊とは自己を鎮め得た者の姿。 人間の内なる思慮分別の猛獣を修め得て、その上に鎮座する姿。 事実を事実のとおりに見るということは、余分なものがないということです。 そこに現れる余分な見解というものを断ち切った姿。 そもそも、もともと一切の事象、事実というものには余分なものはありません。 とは言えども、それでも人は人の習癖・習慣的に物事に思いをつけたす。 いまや「写真で一言」という要らぬ添え物をするバラエティ文化もあるぐらいですから、ものを本当にそのままに受け取るということをしない。 文殊様の持つ剣、智慧の剣というものは、そういう人間の考えを断ち切る働きを象徴したものです。 その文殊の剣とはなにか? お見せしましょう。 いま、そこで、みているもの、きこえていること。 たとえ文字文言を観るにしても、そのものとして映し出されているという姿がありましょう。 文字として見えているだけで意味を持たせてもいない、読み取ってもいないままの、ただの文字の羅列のような景色としてみている時には、文字であっても意味が生じません。 本当にみるということはそこに安住しています。他方に向かわない。蛇足ごとが起こらない。 見届けるという言葉の方が適しているかもしれませんね。 ❝己がそのものを観ていながらそこに余計な色や思いをつけたさぬその己の様子を「こそ」見届けてみてください。❞それはものの方を見るというよりはそれを見ている己を見つめる姿ともいえましょう。 そういうご自身のハタラキ・功徳に気づく眼を持つことです。 あなたの手にはすでに文殊の剣がありますよ。用いることがないのはもったいないことですね。

こんにちは。

 そうですね。お釈迦さまは、いつも本質を見抜き、良い譬えをつかって答えられていますね。

 そうですね。私も物事の本質を見抜くことができているのかどうか分かりませんが、
 本質を見抜くには、
 ・自分の持っている思い込みを捨てる(疑問を持つのは人の常識や社会構造ではなく、自分自身の持っている考えに、ほんとうにそれがただしいことなのかどうなのかもう一度向き合ってみる)こと
 ・ひとつの意見を丸呑みにせず、様々な角度から様々な意見を聞いて判断する事
 ではないかと思います。

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・曹洞宗/静岡県/50代 平成27年鳳林寺住職。平成28年hasunoha回答僧登録。 好きな言葉は「和顔愛語」。和やかな顔と思いやりの言葉という意味です。曹洞宗開祖道元禅師は、愛語には世界を一変させる力があると仰っています。回答には厳しい言葉を入れることもありますが、相手を思いやる気持ちがあってこその言葉と捉え、受け止めていただきたいです。 ※質問の答えについて、話の大筋は変えませんが、投稿してから誤字脱字を直したり、内容をよりわかりやすくするため、若干加筆修正することがあります。ご了承ください。 ※「お礼」は必ず拝読していますが、それに対して回答の追記は原則しないことにしています。ご了承ください。 ・回答する件数は減っていますが、ほぼ全ての質問とつぶやきに目を通しています。
話すのが苦手なので、原則不可とさせていただいています。どうしても!という場合は運営さんに問い合わせてみてね。

質問者からのお礼

なるほど、また一つ知見が広がりました。
物事を色眼鏡をかけてみてしまうというのは人間である以上は仕方ありませんが、思い込みをなくすことは重要ですね。
普段を振り返ってみると思い込みで判断していることが多いと感じます。
今度からは思い込みをなくし、物事を1つの視点ではなく多面的に見てみようと思います。
ありがとうございました。

丹下さん回答ありがとうございます。

『我々人間は思考というシルだく、つゆだく状態。 』

牛丼は私も好きですが、汁だくはあまりすきではありません。
汁だく状態では牛丼本来の味が楽しめません。
余計な要素を省きシンプルに考えることが大事なんですね。
私も「ゴー玉・シルナシーデ王子」になれるようにがんばります。

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