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職場の男性で男性にいじめられた記憶が消えません

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私は、男性80人の中に女性数人で、上司のポストにいます。
以前の職場では、男性から気に食わないからと1年間無視を続けられ、それに同調した男性部下からもなんとなく無視され本当につらい思いをしました。それは、私の転勤とともに終わりました。
現在の職場は、みんなよい人なのです。
しかし、前職場で男性の女性に対する執拗なまでの恨み方を見て、経験がトラウマとして自分の心の奥底に残っています。
いじめは職場が変わったから終わったのであり、原因もあまりはっきりせず、また同じことが起こるのでは、原因は自分にもきっとあるからです。そんな時、ガンが分かり、現在完治に向け働きながら抗がん剤と仕事の両立をしています。病気になって本当に生きていることはありがたいと感じ、不必要な残業はしなくなりました。しかし、男性を見ているとすべては出世のため、だんだん考えにもついていけなくなり、前のいじめの記憶とあいまってどのように自分が女性であり、男性社会で働いていくのかよくわからなくなりました。


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お坊さんからの回答 1件

回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。

いじめは悪。いじめ撲滅の為にもっと叫びましょう。

※今回の回答では「しねばいいのに」という言葉が多発しますが、殺意ではなく魂の叫びとして味わっていただければ幸いです。
「死ねばいいのに…」
この言葉は修行道場時代、後輩さんが言っていた言葉でした。
大変に共感が持てました。
せっかく夢と期待をもって修行道場に行ったのに、フタを開けたらそこで行われていたの体育会系のシゴキやいじめ。みんなその悪しき体質に矛盾を抱えていました。
「しねばいいのに…」
この世界、確かにやっぱり、何かおかしい。
私自身も幼稚園時代はガリガリに痩せていてあだ名はガイコツと呼ばれていました。💀他のクラスの子がわざわざいじめに来るのですが、ロッカーに隠れてもすぐに見つかり、先生も助けてはくれませんでした。「死ねばいいのに…、あの先生。」親も私がやせすぎて「いつか死ぬ」と思っていたらしいです。ひでー。
小学生の時のあだ名はタンゲだけに「たんげち〇げま〇げも〇げ」呼ばれました。「ああ、死ねばいいのに…。」サイコパスなドSの先生にもいじめられました。死ねばいいのに…、古谷。(実名載せない)いいんです、あんなのが教育者なんて30年経った今でさえおかしいと思うし。
ああ、もっと太くなりたい。もっと大きくなりたい。大学時代、ようやく夢がかないました。天下一品の食い過ぎでメタボ体系になったのです。すると何ですか。みんなが今度はデブデブ言ってくるではありませんか。ついたあだ名は「ブイヨン」。スープのダシ。「…死、煮込めばいいのに。」最近にいたってはお医者さんまで「太りすぎです」といってくるのです。それは診察ではなく「みたまんま」を言っているじゃないか。それでお金取るなんて誰にでもできるぶひ。せめてやせ薬下さーい。いじめでしょうか。いいえ、診察。本当に診察でしょうか。いいえ、見たまんま。「痩せればいいのに。」
お寺業界にもいじめはあります。修行道場にすらあるのです。
死ねばいいのに…、死ねばいいのに…
さて、お聞き苦しい言葉が続いてまいりましたが、私はこの言葉こそ真実の叫びだと思います。「そんな言葉を言わせないでくれ」と思うのです。
いじめてくる人間のいじめの原因かというと単に「生意気だ(イラ)」「この俺に対して敬意を示さないとは(ムカ)」そんなもんです。その風潮と体質を無くしてまいりましょう。叫んでいいのです。私もいじめという行為を無くしたいです。

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お悩み相談08020659278
今月の法話 文殊の剣 ❝己がそのものを観ていながらそこに余計な色や思いをつけたさぬその己の様子を「こそ」見届けてみてください。❞(本文より) 「大丈夫、慧の剣を取る。」 大いなる菩薩や老師は智慧の剣を取って、人の迷いの見解を断ち切り真実の姿をみせてくださいます。 智慧の剣とは人間の自我、我見の無いこころからなる、無垢で清らかなる「事実の様子」「本来の様相」を見極める力ともいえましょう。 それこそが智慧の剣なのです。 文殊とは自己を鎮め得た者の姿。 人間の内なる思慮分別の猛獣を修め得て、その上に鎮座する姿。 事実を事実のとおりに見るということは、余分なものがないということです。 そこに現れる余分な見解というものを断ち切った姿。 そもそも、もともと一切の事象、事実というものには余分なものはありません。 とは言えども、それでも人は人の習癖・習慣的に物事に思いをつけたす。 いまや「写真で一言」という要らぬ添え物をするバラエティ文化もあるぐらいですから、ものを本当にそのままに受け取るということをしない。 文殊様の持つ剣、智慧の剣というものは、そういう人間の考えを断ち切る働きを象徴したものです。 その文殊の剣とはなにか? お見せしましょう。 いま、そこで、みているもの、きこえていること。 たとえ文字文言を観るにしても、そのものとして映し出されているという姿がありましょう。 文字として見えているだけで意味を持たせてもいない、読み取ってもいないままの、ただの文字の羅列のような景色としてみている時には、文字であっても意味が生じません。 本当にみるということはそこに安住しています。他方に向かわない。蛇足ごとが起こらない。 見届けるという言葉の方が適しているかもしれませんね。 ❝己がそのものを観ていながらそこに余計な色や思いをつけたさぬその己の様子を「こそ」見届けてみてください。❞それはものの方を見るというよりはそれを見ている己を見つめる姿ともいえましょう。 そういうご自身のハタラキ・功徳に気づく眼を持つことです。 あなたの手にはすでに文殊の剣がありますよ。用いることがないのはもったいないことですね。

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