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月命日、お守りについて。

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有り難し有り難し 17

先日大好きな母を亡くしました。
葬儀の前に母の一部をと思い、
母の髪の毛を少し切りました。

その髪の毛をお守りにして持ち歩こうかと思うんですが、
母の髪の毛をこの世でお守りにするに辺り母が成仏できなくなるなど何か他によくない事はありますか?

お坊さんに三十五日までお経を勤めていただくのですが、
これから月命日などがありますが、
仕事などで忙しくなるため毎月お坊さんを呼べそうにありません。

一周忌などにはお坊さんにお経を唱えてもらう予定です。

月命日には必ずお坊さんにお経を唱えていただいだ方がよいのでしょうか?

お坊さんは呼ばず、お経を録音しておいて流すだけでもよいのでしょうか?

ほかに母のために何かしてあげると良い事などありますか?


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お坊さんからの回答 2件

回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。

御自身でできることをして差し上げてください。

月命日に必ずお坊さんにお経を唱えていただかなくても大丈夫です。

お坊さんは呼ばず、お経を録音しておいて流すだけなら、
御自身でお勤めしてみてはいかがでしょうか。

読経まで無理でも、
朝夕お仏壇の前で合掌・お念仏申すだけで充分です。
そして仏様とお母様とを重ねてイメージして、
お話してください。

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おきもち

 浄土真宗(大谷派)/広島県広島市/17世住職。  1967年京都市生まれ。山形大学理学部卒業後、証券会社で勤務。30歳で脱サラし、親戚筋の超覚寺に入寺、45歳で住職継職。  遺族の分かち合いやお悩み相談などグリーフサポート活動を続け、お寺の掲示板による法語伝道にも尽力している。カープ坊主の会会員。
こちらに法事が入っていなければ、ご希望の日時に相談させていただきます。 想いを吐き出しても、あなたの環境は変わりませんが、あなたの気持ちは変わっていきます。 どうぞ安心してお話しください。

あなたが迷い苦しみ無い人生を歩み、次の世に伝える事

美智子皇后陛下は次のように仰られました。
「幸せな子育てではなく、どんな境遇に置かれても幸せで居られる子育てをしたい」
それをやってみてください。
あなたが、どんな境遇であっても幸せ、ヘッチャラで居られる心になることこそ、報恩行の中の最高の報恩です。
私も、それを求め、それを会得したので、その中身を説いて回るのを生涯の生業にしています。
仏道を成就する、といいます。
簡単に言えば、自分が最高の心のありようを身に着けることです。
その具体的なありようは「物事をワタクシしない事」です。
人や事件や出来事や誰かに対して、自分のルールや要求を押し付けたりせず、物事をワタクシする気持ちを運んでこないで過ごすことです。
自分を中心とした物事の捉え方を捨て去ることです。
物事を問題にするその心を見つめ、それを暴れさせないことです。
それが最高の供養、報恩になります。
お婆ちゃんはそういう無為、無我、無私の世界に往かれました(そういう状態になりました)。あなたも生きながらにそういう心を何となくで結構ですから感じ取って志してください。そういう心をマスターすることで最高の子育て、最高の女性になれるからです。
怒りを無くしたい、穏やかな心になりたい、など具体的な目標を定めてください。

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おきもち

お悩み相談08020659278
今月の法話 文殊の剣 ❝己がそのものを観ていながらそこに余計な色や思いをつけたさぬその己の様子を「こそ」見届けてみてください。❞(本文より) 「大丈夫、慧の剣を取る。」 大いなる菩薩や老師は智慧の剣を取って、人の迷いの見解を断ち切り真実の姿をみせてくださいます。 智慧の剣とは人間の自我、我見の無いこころからなる、無垢で清らかなる「事実の様子」「本来の様相」を見極める力ともいえましょう。 それこそが智慧の剣なのです。 文殊とは自己を鎮め得た者の姿。 人間の内なる思慮分別の猛獣を修め得て、その上に鎮座する姿。 事実を事実のとおりに見るということは、余分なものがないということです。 そこに現れる余分な見解というものを断ち切った姿。 そもそも、もともと一切の事象、事実というものには余分なものはありません。 とは言えども、それでも人は人の習癖・習慣的に物事に思いをつけたす。 いまや「写真で一言」という要らぬ添え物をするバラエティ文化もあるぐらいですから、ものを本当にそのままに受け取るということをしない。 文殊様の持つ剣、智慧の剣というものは、そういう人間の考えを断ち切る働きを象徴したものです。 その文殊の剣とはなにか? お見せしましょう。 いま、そこで、みているもの、きこえていること。 たとえ文字文言を観るにしても、そのものとして映し出されているという姿がありましょう。 文字として見えているだけで意味を持たせてもいない、読み取ってもいないままの、ただの文字の羅列のような景色としてみている時には、文字であっても意味が生じません。 本当にみるということはそこに安住しています。他方に向かわない。蛇足ごとが起こらない。 見届けるという言葉の方が適しているかもしれませんね。 ❝己がそのものを観ていながらそこに余計な色や思いをつけたさぬその己の様子を「こそ」見届けてみてください。❞それはものの方を見るというよりはそれを見ている己を見つめる姿ともいえましょう。 そういうご自身のハタラキ・功徳に気づく眼を持つことです。 あなたの手にはすでに文殊の剣がありますよ。用いることがないのはもったいないことですね。

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