他人の幸せを喜べない
他人の幸せを喜べません。
この先の自分の人生がどうなるんだろうという不安が大きく、また、いつも顔の見えない誰かに笑われているような気持ちを抱えています。劣等感が強く、自分はいつでも置いていかれて、最後は一人になるんだろう…と、お先真っ暗な想像が止まりません。
こんな悩みを友人や家族には相談できず、顔だけは笑ってごまかし、隠し通しています。明るい人だと周りからは思われているだけに、なかなかこんな相談は出来ません。
私だって、誰かの幸せを素直に祝福したいんです。でも、どうして私はダメなんだろうとか、ああきっとこの人は私を見下してるんだ、だから私はよくいろんな人から自慢話ばかり聞かされるんだ………と悲しく、悔しくなってしまいます。そしてそんな心の狭いダメな自分に嫌気がさして、死んでしまいたいと思ってしまいます。
どうしたら、他人の幸せを素直に喜べるようになるのでしょうか。
回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。
願えることが喜び。
『大悲心陀羅尼(だいひしんだらに)』というお経があるんですけれども。
「しゃーろー、しゃーろー、もーもーはーもーらー、ほーちーりー」みたいに唱えるんです。
でも意味はというと和訳みてもよく分からないんですね。
『奮発したまえ、奮発したまえ。』とか『ここはお任せするぞよ。』とか『おぉすごいすごい』とか居酒屋の会計シーンなのかなという感想しかないんです。
一応、何遍唱えると災いを消すとかこういうご利益アリというような説明があって。
たとえば
七遍唱えると、サソリに刺されても治る。
二十一遍唱えると、議論に勝てる。
四十九遍唱えると、鬼を倒せる。
夫婦仲の悪いのを直すには1008遍…
それほんと?
って感じなので色々調べてみたりして結局私自身のイメージとしては松岡修造さんの「できる~できる~君ならできる~」という励ましのエールみたいなものかな?と思って読んでるお経です。
むかし私をわが子のように世話してくれた女性の方が以前、父親を亡くしまして。葬儀のとき泣いてばかりいたら隣に座っていたその人のお母さんが
「顔を上げて。今日、参列に来てくれた人の顔を全員しっかり覚えておきなさい。あなたにつらいことがあったとき、この人たちこそが本当にあなたを助けてくれる人、あなたの幸せを願っている人なのよ。」
と諭したというんですね。
私はその話を聞いて
ああ、そうか他人の幸せを喜ぶだけではなくて、いついつまでも誰かの幸せを願っていることが、その人の、お互いの喜びにつながるのだなと感じました。
他人が幸せでいるときに「大変だろうけど…」とか余計なことを言うわけではありません。大事なのはその人がいざつらいときに幸せを願えるような人であってほしいということです。
しっぽさんは不安を感じてらっしゃる。悲しさ。悔しさ。そういったつらさが分かる方でしょう?それが分かるあなただからこそその人のつらさも分かるはずです。幸せを願うことができると思います。
その人の幸せを素直に喜べなくとも、その人の幸せを願うことができる。すなわちそれが喜びであり、祝福ではないでしょうか。
ちなみに葬儀の時に私が読むお経は、大悲心陀羅尼です。
修造さんのようなテンションでなくとも、いっときの幸不幸に関わらず、幸せを願おう。祈ろう。そんなお経なのでしょう。
質問者からのお礼
幸せを願いたいと思っていることが、祝福であるのでしょうか。このままでもいいのでしょうか。すこし、ほっとしたような気分になりました。ありがとうございました。