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カテゴリーに悩みましたがこれにしました。
私は好きな人がいました。というか、います。
この間で揺れています。
本当は諦めないといけない人です。
なぜなら相手は主治医だからです。
先々月、私の事情で、かかる曜日を変えなければならなかったのですが、その曜日に先生は外来に出ていないため、主治医を変えなければなりませんでした。
なので、お礼の菓子折りと共に、手紙を添えました。連絡先を書き、よかったら、連絡を下さいと。
しかし案の定連絡は来ませんでした。予想はしていました。先生は病院でのお立場を守るべきだし、先生を頼りにしている患者さんもいますから、その選択は当たり前です。
やらない後悔よりやって後悔!と思い渡したのですが、実行しても、先生に迷惑かけたと後悔の念。
そして先日、先生に、この間は困らせてごめんなさい、と書いた手紙を、クラークさんに託しました。勿論そこには何の連絡先も書きませんでしたが、御返事みたいなことは何も起こっていません。
心の中で、未だに連絡を待つ自分が居るから、本当にやるせないのです。
先生は先生の答えを出しているのに、諦め切れないどうしようもない自分がいて。
好きだからだと思います。いい歳こいて、夢見てます。
支離滅裂ですみません。
お坊さん、こんな諦めの悪い私に、何かお言葉を貰えないでしょうか。
よろしくお願いします。


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お坊さんからの回答 2件

回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。

ホントに頼るべきは自己の本来の静寂美

斉藤〇貴さん、こんにちは。
そうですか、あのパンツを被っていた主治医の先生のことが忘れられないのですね。(ちがうっつの)
失礼いたしました。お約束のボケです。
さて、人間にはリーダーが必要です。
精神的な導き手。
異性、パートナーにそれを求めるのは危険です。
公私混同のない精神的なリーダーを持つとよいと思います。
感情が振り回されることなく、恋愛においてパートナーがもしものことがあっても頼れる存在となります。
人生はパートナーに出会ってそれで幸せハッピーエンドというわけではありません。
斉藤〇貴さんも3度も不倫をしてもあんまり幸せそうじゃありません。
そもそも幸せを求める方向性を「異性」に設定してしまうと、現実がそうでないときに苦しみが生ずるものです。人は幸せを求める方向性を誤るということは誰にでもあるものです。
あって当然です。
だからこそ、本当に頼るべきものは移ろいやすいものや形の変わるものでは、心が安定しません。
仏教とは、仏教をよりどころにするというよりは具体的には、この自分自身のわたくし性のないところに頼るべきところを見出すものです。
呼吸にしても、感覚器官にしても、内臓にしても、自分の願いや思いとはまるで無関係に動いてくれています。
自分の体で自分の意志で動いていない働きや作用を般若といいます。
自己の般若の働きに目を向けてみましょう。
妄想が静まるまで、心を鎮めれば静寂が生じます。
静寂が生ずれば、智慧が生じます。智慧とは自己の内部のわたくし意識なき働きです。
能動的な心の働きを全部やめてしまうことで、人間本来の静寂性が現れます。
そういう自分の究極の静まりを体感すると、自己の外に幸せや安らぎを求めることは危ういことであるとわかります。
諸仏、ブッダ、祖師が気づかれた悟り・仏教とはこういう身近で、自分自身の本来の働きと密接にかかわっているものなのです。

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有り難し
おきもち

お悩み相談08020659278
今月の法話 文殊の剣 ❝己がそのものを観ていながらそこに余計な色や思いをつけたさぬその己の様子を「こそ」見届けてみてください。❞(本文より) 「大丈夫、慧の剣を取る。」 大いなる菩薩や老師は智慧の剣を取って、人の迷いの見解を断ち切り真実の姿をみせてくださいます。 智慧の剣とは人間の自我、我見の無いこころからなる、無垢で清らかなる「事実の様子」「本来の様相」を見極める力ともいえましょう。 それこそが智慧の剣なのです。 文殊とは自己を鎮め得た者の姿。 人間の内なる思慮分別の猛獣を修め得て、その上に鎮座する姿。 事実を事実のとおりに見るということは、余分なものがないということです。 そこに現れる余分な見解というものを断ち切った姿。 そもそも、もともと一切の事象、事実というものには余分なものはありません。 とは言えども、それでも人は人の習癖・習慣的に物事に思いをつけたす。 いまや「写真で一言」という要らぬ添え物をするバラエティ文化もあるぐらいですから、ものを本当にそのままに受け取るということをしない。 文殊様の持つ剣、智慧の剣というものは、そういう人間の考えを断ち切る働きを象徴したものです。 その文殊の剣とはなにか? お見せしましょう。 いま、そこで、みているもの、きこえていること。 たとえ文字文言を観るにしても、そのものとして映し出されているという姿がありましょう。 文字として見えているだけで意味を持たせてもいない、読み取ってもいないままの、ただの文字の羅列のような景色としてみている時には、文字であっても意味が生じません。 本当にみるということはそこに安住しています。他方に向かわない。蛇足ごとが起こらない。 見届けるという言葉の方が適しているかもしれませんね。 ❝己がそのものを観ていながらそこに余計な色や思いをつけたさぬその己の様子を「こそ」見届けてみてください。❞それはものの方を見るというよりはそれを見ている己を見つめる姿ともいえましょう。 そういうご自身のハタラキ・功徳に気づく眼を持つことです。 あなたの手にはすでに文殊の剣がありますよ。用いることがないのはもったいないことですね。

素敵な出会いに感謝して

拝読させて頂きました。
素敵な人との出会いは人生を豊かにしてくれます。
その方との出会いはあなたの人生にとっても大切な事ではなかったでしょうか?

あなたがその様に行動なさったことは素敵な事です。
ですから後悔する必要はないと思います。その出会いに感謝して、自分に対して真摯な気持ちをお伝えしたことはあなたの人生の糧になる事です。

その方の仕事としての立場もあるでしょうからお答えできない、それがその方の今のお答えとして受け入れていいと思います。
何もしなかった後悔よりも行動に移したことで気持ちの整理はつくものです。

それでも心残りはあるでしょうけれども、どうか少しずつ気持ちを切り替えて新たな出会いに向かっていって下さいね。
あなたがこれからも素晴らしいご縁に恵まれて、そのご縁を共に深めていかれて心から豊かにご生活なさって下さいます様心からご祈念申し上げます。

再度拝読させて頂きました。
はい、私は良いと思います。そのような出会いがあることは大切ですし、人と人との出会いに感謝して頂くことはまた明日につながることですから。

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有り難し
おきもち

個別相談可能
脱サラして10年が経ちました。栃木県佐野市の一向寺に勤めています。(佐野ラーメンが有名な処です。)これからも皆様のご質問に対して誠心誠意回答させて頂きたいと存じます。まだまだ修行中の身ですので至らぬ点あろうかとは存じますが共に精進して参りましょうね。お寺にもお気軽に遊びに来てください。
ご相談は朝から午後5時まで受け付けております。 人間関係や恋愛のお悩み、自殺願望、大切な方の死に直面した苦しみなど、どんな内容でも構いません。一人で抱え込まずに、ぜひお辛いお気持ちを吐き出してください。 仏様や神様、ご先祖様は、いつもあなたを見守り、聞いてくださっています。あなたが少しでも穏やかな気持ちになれるお手伝いをさせていただきます。

質問者からのお礼

ありがとうございます。ご先祖さまに、日々感謝を忘れないようにし、新たな出会いがまた訪れるよう祈っていようと思います。

密かに静かに想いを抱くくらいなら、構わないと思いますか?

すみません。
密かに、以降は、追記となります。

良かったです。諦める=忘れるという思考だったので、とても辛かったです。それを伺って、ホッとしました(*ˊ˘ˋ*)

丹下覚元さん、ありがとうございます。
パンツの行はすみませんよく分からなかったのですが(笑)以降、沢山のアドバイスを頂戴し光栄です。拠所は、人でなくてもいいですか?なにかに没頭できることや、得意なことでも宜しいでしょうか?

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