いっそ地獄に落ちるといわれた方が楽
人を傷つけた人は死後、地獄に落ちるのでしょうか。
私は一度だけ、言葉で友人を深く傷つけたことがあります。彼女は友達が少ない人だったので、強烈な裏切り行為だったと思います。
他の人に親切にしたとしても、結局それは彼女ではないのだから、彼女を救ったわけではありません。私がいくら心の中で謝っても彼女が救われるわけではないとおもいます。
彼女がいま、何をしているかわかりませんが、幸せでなかったらとおもうと苦しいです。
あなたが幸せにならなければ周りも不幸になってしまうと言われますが、幸せになっていいのか疑問です。
仏教では南無阿彌陀仏を唱えれば極楽浄土にいけるよと母から言われましたが、いっそ地獄に落ちるよといわれた方が気持ちが楽です。
彼氏も母も、わたしの過去を受け入れてくれます。これから同じことを繰り返さなければいいといってくれます。私は恵まれているのだと思います。
ただ、本当に幸せになっていいのか疑問なのです。
回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
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すでに地獄にいます
あなたが今お持ちのその悩み苦しみこそが、あなたの犯した悪業による報い、つまり地獄なのですよ。
ですから、その悩み苦しみをしっかり受け止めてください。
その悩み苦しみをこれからも背負い、そして、反省して同じ過ちをしないように誓いながら、これからも生きてください。
また、世の中は全て繋がっています。
あなたが良い行いを続けていたら、きっと回り回っていつか何かの形でその人にも良い影響を与えると思いますよ。
そう信じて前向きに生きてくださいね。
大丈夫です。
ねこ様
川口英俊でございます。問いへの拙生のお答えでございます。
人間誰しも、悪い行い(悪業)をしてしまうのは避けられないことです。
と言うか、全く悪い行いをせずに避けられるのであれば、その人は既に仏陀・如来です(笑)
私たち凡夫は、無明(根本的な無知)や煩悩により、どうしても知らず知らずのうちにでも悪業を積んでしまうのが、言ってみれば当たり前のこととなります。まあ、悪業の原因を完全に排除できたのであれば、人として生まれることも無いでしょうし。(但し、衆生を救う目的で人間の姿に変化して現れられる仏様もいらっしゃる可能性はありますが、、)
とにかく、仏法を修することで、無明・煩悩を退治して、悪業をできる限りに積まなくして、そして、善業を積めるように努めることが求められるものとなります。
そのためとして、慚愧・懺悔ということも善業へと向けて調えることが望まれるものになります。
その慚愧・懺悔をなさられておられますことは、誠に良いことであります。
人を傷つけた人であっても、慚愧・懺悔し、深く反省すると共に、償いとしての、何か善業、それも、その傷つけてしまった人や他の迷い苦しみを取り除くことになる善業を行うことで、地獄どころか、浄土へと至れることも十分にあり得ることになるのでございます。
どうしても、その傷つけてしまった人に対して直接にはできないとなっても、その人の幸せを願い、行った善業がその人にも及びますようにとして、功徳を回向して頂けましたらと存じます。
そして、できれば、全ての者たちが、悟り・涅槃へと至れますようにとして、善業を調えて頂けるようになって頂けましたら、尚、有り難いことになります。
幸せになっても、もちろん良いのですよ。ただ、是非、仏教についても学び修して頂けましたらと存じます。
川口英俊 合掌
質問者からのお礼
苦しみながら前向きに生きるって難しいですね。ありがとうございました...
川口英俊さま
解答ありがとうございます。人間誰しも悪い行いをしてしまうのは避けられないのですか...
悪いことをしたから、人間として普通に生きていてはいけないと思ってました。
とても、救われました。
仏教のことはこれからもっと知っていきたいと思っています。
ただ悩み続けるのではなく、心を入れ換え、良い行いを積んでいきます。
ありがとうございました。