自分の生きる価値がわかりません。
最近よく死にたいと思うようになりました。
前までは、毎日の学校生活も楽しく、上手くいかないことがあってもけして死にたいと思うことはありませんでした。
しかし、最近はよく生きることに対して疑問を持ってしまいます。
家族にも恵まれていると思うし、友人と呼べる人も多くいます。しかし、自分の生き方はすごく意味の無いものに感じてしまいます。
努力するのが苦手です。努力して失敗したくないと思ってしまいます。自分で選択して責任を負うのも嫌です。
自分でも、すごく甘い考えだっていうのは分かってるんですけど、すぐ楽に生きようとして、常に厳しい選択肢から逃げてしまいます。
ほかの人は、努力しているのに、責任をもって生きているのに、自分は逃げてばかりで、そんな自分に嫌気がさしてしまいます。
こんな中途半端な自分が生きていても、何も意味が無いように思えてしかたがありません。
生きていればこの先絶対に、「生きててよかった」と思える時がくるから。という言葉が信じれません。
生きててよかったと感じることができるのは、あくまでも努力した人が感じることのできる感情であって、努力することをさけている自分はそう思うことができないのだと思います。
周りの人からすれば、努力すればいいだけなのかもしれませんが、自分は努力して失敗することがすごく怖いです。
こんな甘い考えの自分が生き続けて、この先なにか生きていてよかったと思えるようなことはあるのでしょうか。生きていくのがしんどいです。
回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。
一期一会
本当に死んでしまう前に、旅行に行っておいでよ。
ぐる〜っと日本中、できれば外国にも行っておいでよ。
そして、たくさんの人たちと会っておいでよ。
色々なところへ行って、色んな人たちを見ておいでよ。
【一期一会】というものを味わっておいで。
そこまでしてもまったく何の発見もなければ、
その時はその時だ(笑)
千里の道も一歩から
ぐちまる様
川口英俊でございます。問いへの拙生のお答えでございます。
生きる意味や価値、理由というものは、「これだ」と決めて言えるような実体としてのものはなく、色々な因縁(原因と条件)によるもので、しかも、それぞれにおいて「得心」するようなものとなります。
そして、決して「無い」というわけではありません。ただ、それは因縁次第、得心次第ということになります。良い因縁によれば、良い結果となる、良い意味・価値・理由と自分が得心すれば、そうなるということであります。
そして、その結果というものには、世間的なものと、もう一つは、仏教的に申しますと、出世間的なものがあり、まあ、世間的なものにおける良い結果というものは、やはり、大抵は一時的なもの、ぬか喜び的なものに過ぎず、それよりも、仏教的な良い結果としての悟り・涅槃という究極的なものを目指すことを仏教的には推奨致したいところとなります。
まあ、いずれにしても、何もしないよりかは、少しずつでも努力することで、良い因縁に努めないと、良い結果というものは望めないものであります。いきなり厳しい選択をするのでもなく、いきなり高みを望むのではなくて、まずは足元をしっかりと見て、できることを一つ一つ、一歩一歩であります。千里の道も一歩から。
何でも良いのです。勉強、趣味、スポーツ、料理・・
努力と気負わずに、一つ一つできることを増やしていくという感じで。。
川口英俊 合掌
視野をひろげましょう
ただ生きてるだけでね、良かった、と思えることに遭遇しますよ。努力しなくても、大丈夫。みんな楽したいと思ってます、大丈夫。私もずっとそう思ってますよー。。。頑張ってる人の、その何人かが、実際に成功して、すごいことして、その他多くの人が それを知り感動する!!。でも、それを知るには生きてないといけないんです。明日のことは誰もわからないけれど、明日生きてる人は、明日を知れる。未来を知れるのは、生きてる人だけなんですよー。どんな未来があるのか眺めるだけでも生きる価値ありますよー。明日すごいことが起こるかもしれないじゃないですかー。伝わるかなー?
質問者からのお礼
ありがとうございました。自分でも気負いすぎてたのかなぁと思うと、少し心が軽くなりました。今は学生の身分なので旅に出るのはなかなか難しいですが、大人になったらぜひ旅をして色んな人との縁を感じてみたいと思います。