強くなるには
前に被害妄想のようなことで相談させていただきました。
ずいぶん前に比べると調子も良くなりました。
学生時代に悪口や無視をしたことがある、とくよくよ悩み被害妄想のようなことも出てきました。
学生時代は悪口、無視が特別な世界では無かったので、大人になって後悔や不安がざーっと来ているのだと思いました。
反省しつつ、自分を責めすぎず、不安と上手く付き合いながら生活しています。八方美人も辞めたら随分楽になりました。
また、同級生と接する機会が少しあったのですが、私、普通の学生だったんだと思えるようになりました。(昔は私だけが極悪だったとしか思えませんでした)
大分穏やかに暮らせるようになったのですが、
一つの妄想だけがなかなかとれません。
それは、今働いているところがあるのですが、そこに知り合いが来るのではないか、そして怒鳴られたらどうしよう、周りの人に悪く思われたらどうしよう。ということです。
辞めなきゃいけなくなるのかな、こう言われたらこう返そうかな、などぐるぐる考えています。このこと自体が妄想、不安だ!と調子が良い時は思えるのですが、どうも怖くて仕方ありません。
色々考えるのですが、結局人に悪く思われるのが怖いとゆうのが大半なのかなとも思ったり、完璧主義の傾向があるので過去も含め完璧ではない自分がバレるのが怖いんだと思います。
私自身、人に非難されることも多かったので、
小さい時からの性格を少しずつ良い方に変えれるように芯のある人間になれるように、少しずつ実践しているのですが
自分の軸をしっかりもつには何を意識すれば良いのでしょうか。
今ひとつ自分がゆらゆらしてるようで、足りない気がしています。
回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。
もう穴の空いたあなたの衣装は脱いでいるでしょ?
たぶん、あらゆる人の中であなたを責める人がいるとすると、一番責めているのって、たぶん「あなた自身」です。たぶん、ゼッタイ。
どうしてかというと、百万人が文句を言おうが悪口を言おうが、それを採用しない人は傷つかないのです。うん、ゼッタイ。
だから、自分を他人の言葉で傷つかせてはいけないのです。ダメ、ゼッタイ。×
ネットなんかみんな無責任にぶーぶー言ってます。
人間は人の事を悪く言うことによって、その人自身がその人自身のコンプレックスを解消しようとするイヤらしい働きがあるのでしょう。だとすればその人たちの趣旨はあなたを非難することではなく、その人たちが気持ちよくなりたいだけですから相手にする必要もないし、耳を貸す必要も、時間を割く必要すらないのです。
道元さんという方は「恥ずべくんば明眼の人の言を恥ずべし」と説いています。
これはどうせ耳を傾けるのであれば、本当にスンゲー人からのダメだしに耳を傾けて自分をよりホンモノに向けて磨き上げていきんさいという意味でもあります。仏法においての究極の完成は、ワタクシを認める心が無くなること=もともとの自分の「無さ」を自覚することです。
あなたも本来の無我(本当の意味での自分らしさの無さ)を生きればいいのです。
丹下なんか、ここでたまたま活動しているだけで、人によっては良く言っているように見せかけて蔭ではみんな文句言ってます。人間ってそういうもんです。
始皇帝を暗殺しようとした武人を描いた映画「HERO」で大量に矢が飛んでくるシーンがあります。ある時は矢をかわし、打ち返したり、ある時は一身に身に受けたり。
百万本の矢が刺さることはありません。刺さるところもありません。
もっと深めれば、刺さる私・我がないのです。自分を認めようとする心がなければ、他人の誹謗中傷から傷つくことはありません。みんな好き勝手に言っていたとしても、自分がそこに実際に存在すらしないからです。
実際に存在する自分は、もう前のものではありません。人間は一秒ごと一秒ごとにヘビが皮を脱ぎ捨ててしまうように、ハロウィンの衣装を今日ハロウィン祭で着ても明日には脱ぐように、さっきまでかぶっていた着物はもう脱いでいるのです。そういうあり方が人間なのです。
中傷・非難されたあなたの衣装はもうどこにもありませんが?何かお悩みがありますか?(笑)分かるまで読んでみてください。
質問者からのお礼
あと一歩、悩んでいたところが自分の中で整理できはじめている気がしています。
また悩んだ時は何度も読み返させていただきます。
ありがとうございます。