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強くなるには

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有り難し有り難し 19

前に被害妄想のようなことで相談させていただきました。

ずいぶん前に比べると調子も良くなりました。

学生時代に悪口や無視をしたことがある、とくよくよ悩み被害妄想のようなことも出てきました。

学生時代は悪口、無視が特別な世界では無かったので、大人になって後悔や不安がざーっと来ているのだと思いました。
反省しつつ、自分を責めすぎず、不安と上手く付き合いながら生活しています。八方美人も辞めたら随分楽になりました。
また、同級生と接する機会が少しあったのですが、私、普通の学生だったんだと思えるようになりました。(昔は私だけが極悪だったとしか思えませんでした)
大分穏やかに暮らせるようになったのですが、
一つの妄想だけがなかなかとれません。

それは、今働いているところがあるのですが、そこに知り合いが来るのではないか、そして怒鳴られたらどうしよう、周りの人に悪く思われたらどうしよう。ということです。

辞めなきゃいけなくなるのかな、こう言われたらこう返そうかな、などぐるぐる考えています。このこと自体が妄想、不安だ!と調子が良い時は思えるのですが、どうも怖くて仕方ありません。

色々考えるのですが、結局人に悪く思われるのが怖いとゆうのが大半なのかなとも思ったり、完璧主義の傾向があるので過去も含め完璧ではない自分がバレるのが怖いんだと思います。

私自身、人に非難されることも多かったので、
小さい時からの性格を少しずつ良い方に変えれるように芯のある人間になれるように、少しずつ実践しているのですが
自分の軸をしっかりもつには何を意識すれば良いのでしょうか。
今ひとつ自分がゆらゆらしてるようで、足りない気がしています。


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お坊さんからの回答 1件

回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。

もう穴の空いたあなたの衣装は脱いでいるでしょ?

たぶん、あらゆる人の中であなたを責める人がいるとすると、一番責めているのって、たぶん「あなた自身」です。たぶん、ゼッタイ。
どうしてかというと、百万人が文句を言おうが悪口を言おうが、それを採用しない人は傷つかないのです。うん、ゼッタイ。
だから、自分を他人の言葉で傷つかせてはいけないのです。ダメ、ゼッタイ。×
ネットなんかみんな無責任にぶーぶー言ってます。
人間は人の事を悪く言うことによって、その人自身がその人自身のコンプレックスを解消しようとするイヤらしい働きがあるのでしょう。だとすればその人たちの趣旨はあなたを非難することではなく、その人たちが気持ちよくなりたいだけですから相手にする必要もないし、耳を貸す必要も、時間を割く必要すらないのです。
道元さんという方は「恥ずべくんば明眼の人の言を恥ずべし」と説いています。
これはどうせ耳を傾けるのであれば、本当にスンゲー人からのダメだしに耳を傾けて自分をよりホンモノに向けて磨き上げていきんさいという意味でもあります。仏法においての究極の完成は、ワタクシを認める心が無くなること=もともとの自分の「無さ」を自覚することです。
あなたも本来の無我(本当の意味での自分らしさの無さ)を生きればいいのです。
丹下なんか、ここでたまたま活動しているだけで、人によっては良く言っているように見せかけて蔭ではみんな文句言ってます。人間ってそういうもんです。
始皇帝を暗殺しようとした武人を描いた映画「HERO」で大量に矢が飛んでくるシーンがあります。ある時は矢をかわし、打ち返したり、ある時は一身に身に受けたり。
百万本の矢が刺さることはありません。刺さるところもありません。
もっと深めれば、刺さる私・我がないのです。自分を認めようとする心がなければ、他人の誹謗中傷から傷つくことはありません。みんな好き勝手に言っていたとしても、自分がそこに実際に存在すらしないからです。
実際に存在する自分は、もう前のものではありません。人間は一秒ごと一秒ごとにヘビが皮を脱ぎ捨ててしまうように、ハロウィンの衣装を今日ハロウィン祭で着ても明日には脱ぐように、さっきまでかぶっていた着物はもう脱いでいるのです。そういうあり方が人間なのです。
中傷・非難されたあなたの衣装はもうどこにもありませんが?何かお悩みがありますか?(笑)分かるまで読んでみてください。 

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有り難し
おきもち

お悩み相談08020659278
今月の法話 文殊の剣 ❝己がそのものを観ていながらそこに余計な色や思いをつけたさぬその己の様子を「こそ」見届けてみてください。❞(本文より) 「大丈夫、慧の剣を取る。」 大いなる菩薩や老師は智慧の剣を取って、人の迷いの見解を断ち切り真実の姿をみせてくださいます。 智慧の剣とは人間の自我、我見の無いこころからなる、無垢で清らかなる「事実の様子」「本来の様相」を見極める力ともいえましょう。 それこそが智慧の剣なのです。 文殊とは自己を鎮め得た者の姿。 人間の内なる思慮分別の猛獣を修め得て、その上に鎮座する姿。 事実を事実のとおりに見るということは、余分なものがないということです。 そこに現れる余分な見解というものを断ち切った姿。 そもそも、もともと一切の事象、事実というものには余分なものはありません。 とは言えども、それでも人は人の習癖・習慣的に物事に思いをつけたす。 いまや「写真で一言」という要らぬ添え物をするバラエティ文化もあるぐらいですから、ものを本当にそのままに受け取るということをしない。 文殊様の持つ剣、智慧の剣というものは、そういう人間の考えを断ち切る働きを象徴したものです。 その文殊の剣とはなにか? お見せしましょう。 いま、そこで、みているもの、きこえていること。 たとえ文字文言を観るにしても、そのものとして映し出されているという姿がありましょう。 文字として見えているだけで意味を持たせてもいない、読み取ってもいないままの、ただの文字の羅列のような景色としてみている時には、文字であっても意味が生じません。 本当にみるということはそこに安住しています。他方に向かわない。蛇足ごとが起こらない。 見届けるという言葉の方が適しているかもしれませんね。 ❝己がそのものを観ていながらそこに余計な色や思いをつけたさぬその己の様子を「こそ」見届けてみてください。❞それはものの方を見るというよりはそれを見ている己を見つめる姿ともいえましょう。 そういうご自身のハタラキ・功徳に気づく眼を持つことです。 あなたの手にはすでに文殊の剣がありますよ。用いることがないのはもったいないことですね。

質問者からのお礼

あと一歩、悩んでいたところが自分の中で整理できはじめている気がしています。
また悩んだ時は何度も読み返させていただきます。
ありがとうございます。

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