hasunoha お坊さんが必ず答えてくれるお悩み相談サイト

お坊さんに質問する
メニュー
メニューを閉じる

人工流産について

回答数回答 1
有り難し有り難し 23

毎回同じ内容の相談ですみません。そして毎回ありがたいコメントをありがとうございます。

今までの質問を見て頂いたらお分かりになるかと思いますが、私は5年前、長男が6ヶ月の時に、私の都合で人工流産しています。(重度の産後うつで、少しマシになってきた頃にイヤイヤ(受け入れた時点で言い訳になりませんが…)ですが性行為をしたら避妊に失敗してしまい、アフターピルを飲んでも妊娠してしまいました。)

5年間次に産まれてきてくれたら、精一杯育ててあげようと思いながら過ごしてきました。

そして今年長女が生まれました。

そうしたら、とんでもない罪悪感と後悔に襲われてしまいました。

今回お聞きしたいのは、気持ちの持って行き方です。

私はいま、テレビを観たり、綺麗な景色をみたり、美味しいものを食べたりする度に、

あぁ。私が産んであげられていたら、あの子も、人間としてこういうことができたのに…と、その子にあったはずの人生を、奪ってしまったのだと、苦しくて苦しくてたまりません。

何をするにも、この考えが付きまといます。これも罰なのだろうとも思います。

どのように気持ちを持っていったら良いでしょうか?


この問答を娑婆にも伝える
facebookTwitterLine

お坊さんからの回答 1件

回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。

殺と不殺に陥ることなく、菩提心利他心をもって人を救う。

問題はあなたが今後あなたの人生でどれだけ人を救えるか。
人間は生きていれば毎日生命を殺しています。
食事をすれば何らかの命を頂戴しなければなりません。
では何も食べなければ自身の命を殺すことになります。
食べるためだけになら殺してよいというならば、某国の宗教心のないサンマの爆漁はやがて自分たちの命も削ることになるから「両殺」です。
頂いた命により、あなたのおなかの中で人間という命が生じた。あなたは人工的に中絶された。だからと言ってどんどん産むべきということで少子化政策が解除されれば世界は人口爆発。元々良し悪しがないのがこの世の元々の道理。だからこそ非人道的な行為を堂々と良しとして偏った思想にのっとって無理に行えば世の中が狂う。
だからこそ、本当にあるべき姿とは!どうあるべきかを世間の常識を「超えて」真の道徳心=宗教心をもって考えなければいけません。
結論は、あなたがこの世にあってどんどん他人を助ける活動をすることです。
今日もNHKで「ばっちゃん」という孤児を食べさせてあげる活動をされている偉い方のことを知りました。
反対に人を殺めたり傷つけれたり、見殺しにすれば、どんどん世の中は某国のように悪くなる一方。だからこそ、どんどん人を救う活動をするのです。仏教ではその心を持つことを菩提心と言い、その活動を利行といいます。そもそも、人の命と動物や植物、魚の命とは別物は別物でしょうが、命としては「命の働き」をもっています。
たとえ話ですが、回転ずしでイクラやとびっこ、シラスを食べる時、一粒一粒にそんなことを考えていたら涙が止まりませんし、レーンはまわっていってしまいます。
わがことだからこそ、特に苦しい、悲しい、申し訳ない気持ちが生ずるでしょう。でももう取り返せません。だからこそ、あなたが今の自分の命もふくめて接する人たちを助けて、救いに導くのです。救いとは何か。悟り、智慧・慈悲を求め、自ら実行することです。できることを勤めるだけでよいのです。
生命としてはどんな命も人間の良し悪しや価値判断を超えた働きをしています。
成人であれば生きてるだけで、精子卵子のレベルで見殺しにしなければいけないレベルがある。だからこそ、浮かばれた私たちはこの世で、浮かばれなかった生命の為に彼らが浮かばれる「ような」活動をする。宗教、宗教心は誰にでも必要なこと。あなたが自身の宗教心を持つことです。

{{count}}
有り難し
おきもち

お悩み相談08020659278
今月の法話 文殊の剣 ❝己がそのものを観ていながらそこに余計な色や思いをつけたさぬその己の様子を「こそ」見届けてみてください。❞(本文より) 「大丈夫、慧の剣を取る。」 大いなる菩薩や老師は智慧の剣を取って、人の迷いの見解を断ち切り真実の姿をみせてくださいます。 智慧の剣とは人間の自我、我見の無いこころからなる、無垢で清らかなる「事実の様子」「本来の様相」を見極める力ともいえましょう。 それこそが智慧の剣なのです。 文殊とは自己を鎮め得た者の姿。 人間の内なる思慮分別の猛獣を修め得て、その上に鎮座する姿。 事実を事実のとおりに見るということは、余分なものがないということです。 そこに現れる余分な見解というものを断ち切った姿。 そもそも、もともと一切の事象、事実というものには余分なものはありません。 とは言えども、それでも人は人の習癖・習慣的に物事に思いをつけたす。 いまや「写真で一言」という要らぬ添え物をするバラエティ文化もあるぐらいですから、ものを本当にそのままに受け取るということをしない。 文殊様の持つ剣、智慧の剣というものは、そういう人間の考えを断ち切る働きを象徴したものです。 その文殊の剣とはなにか? お見せしましょう。 いま、そこで、みているもの、きこえていること。 たとえ文字文言を観るにしても、そのものとして映し出されているという姿がありましょう。 文字として見えているだけで意味を持たせてもいない、読み取ってもいないままの、ただの文字の羅列のような景色としてみている時には、文字であっても意味が生じません。 本当にみるということはそこに安住しています。他方に向かわない。蛇足ごとが起こらない。 見届けるという言葉の方が適しているかもしれませんね。 ❝己がそのものを観ていながらそこに余計な色や思いをつけたさぬその己の様子を「こそ」見届けてみてください。❞それはものの方を見るというよりはそれを見ている己を見つめる姿ともいえましょう。 そういうご自身のハタラキ・功徳に気づく眼を持つことです。 あなたの手にはすでに文殊の剣がありますよ。用いることがないのはもったいないことですね。

質問者からのお礼

お礼が遅くなり、大変申し訳ありませんでした。胸に響きました…。周りの人のために生きていきたいと思います。

温かい気持ちになるお坊さん説法まとめ