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アームカットをしてます

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アームカットをしています。
始めたきっかけは楽になるときいた事があるからで、いざやって見ました。別に楽になりませんでした。
でも血を見るとボーッとなって楽しい気がして辞められなくなりました。
気がするだけです。
自分で自分が分からないので、なんでやってるのか知りたいです。

家族にはだるいので気づかれたくないです。
友達には築いて欲しくないけど気づいて欲しい気がします。よく分かりません。

中学生の頃人生で最大に嫌なことが積み重なって今より辛かったです、今でもなんであの時死ななかったんだろうと後悔しています。
その時のクイをいまはらってるんでしょうか?

自分が分かりません。
(学校では明るくて社交的でずっと笑ってます。楽しい気がします。)


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お坊さんからの回答 3件

回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。

生きてる実感を欲してる

アームカットよりいい方法があります。
まず、鼻を超かんでください。
点鼻薬がおススメです。
騙されたと思ってやってみてください。
がっつり鼻の奥に点鼻薬を挿入して鼻シュッシュするのです。痛ぇ~
しばらくすると鼻の通りがよくなります。
鼻って結構、詰まっていないようでも詰まってるのです。
外へ行って空気を吸いましょう。
鼻ってこんなに通るんだって思うまで深呼吸。
眼も洗いましょう。と
アイボンとかでもいいでしょう。
耳の通りもよくしましょう。
奥歯を噛みながら自分の呼吸音に何も考えずに耳を傾けます。
手作り食品以外食べないように心がけて食べることを減らして内臓を活発にします。
デカい銭湯へ行き湯船につかって大の字で浮かび脱力しましょう。
ごしごしタオルで肌を傷つけない程度にコスって水分たっぷりとってサウナ入って心と体の毒素を出します。
アームカット・リストカットしたい人の感覚って刺激が感じられないくらいに五感がマヒってます。あちこちの「詰り」を無くすのです。
体をリフレッシュしたら、心を満たしましょう。
心を満たすには心をリセットすることです。
あなたの求め方はおそらく、あらかじめ満たそうとしているものが決まっちゃっていませんか。
自分で自分の欲しがるものが最初から決まっている。だから満たされない。
あらかじめ事前にこれが欲しいって思っているところがあると思います。
それ一度丹下がもらいます。アング。( ゚Д゚)モグモグ。
「事前の求め無しに生きる。」
この世って、毎日新しいんスわ。
たとえて言うなら二度も回ってこない回転ずし。
とり損ねたら、振り返っちゃダメ。ゼッタイ。
ワールズキープオンターニングとスティーヴィ―ワンダーは歌い、
まわるまわるよ時代はまわると中島みゆきさんは歌い、
we don't stop と西野カナさんは歌い、
マイライフゴーズァラウンドネバーストップㇲライクァメリーゴーラウンドと布袋寅泰は歌っています。
これらは皆回転ずし屋の歌であるであることは言うまでもありません。(違うわい)
ですが、世界を回転ずしに例えますと、世界のレーンには毎日同じマグロはまわってきません。
回転ずしならさっき取り損ねたネタが再び回ってくることもあるでしょう。
この世の実際の世界は、みんな「徐々に別もの化」して❝生きて❞いるのです。
坐禅は命をじかに実感できる道です。

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お悩み相談08020659278
今月の法話 文殊の剣 ❝己がそのものを観ていながらそこに余計な色や思いをつけたさぬその己の様子を「こそ」見届けてみてください。❞(本文より) 「大丈夫、慧の剣を取る。」 大いなる菩薩や老師は智慧の剣を取って、人の迷いの見解を断ち切り真実の姿をみせてくださいます。 智慧の剣とは人間の自我、我見の無いこころからなる、無垢で清らかなる「事実の様子」「本来の様相」を見極める力ともいえましょう。 それこそが智慧の剣なのです。 文殊とは自己を鎮め得た者の姿。 人間の内なる思慮分別の猛獣を修め得て、その上に鎮座する姿。 事実を事実のとおりに見るということは、余分なものがないということです。 そこに現れる余分な見解というものを断ち切った姿。 そもそも、もともと一切の事象、事実というものには余分なものはありません。 とは言えども、それでも人は人の習癖・習慣的に物事に思いをつけたす。 いまや「写真で一言」という要らぬ添え物をするバラエティ文化もあるぐらいですから、ものを本当にそのままに受け取るということをしない。 文殊様の持つ剣、智慧の剣というものは、そういう人間の考えを断ち切る働きを象徴したものです。 その文殊の剣とはなにか? お見せしましょう。 いま、そこで、みているもの、きこえていること。 たとえ文字文言を観るにしても、そのものとして映し出されているという姿がありましょう。 文字として見えているだけで意味を持たせてもいない、読み取ってもいないままの、ただの文字の羅列のような景色としてみている時には、文字であっても意味が生じません。 本当にみるということはそこに安住しています。他方に向かわない。蛇足ごとが起こらない。 見届けるという言葉の方が適しているかもしれませんね。 ❝己がそのものを観ていながらそこに余計な色や思いをつけたさぬその己の様子を「こそ」見届けてみてください。❞それはものの方を見るというよりはそれを見ている己を見つめる姿ともいえましょう。 そういうご自身のハタラキ・功徳に気づく眼を持つことです。 あなたの手にはすでに文殊の剣がありますよ。用いることがないのはもったいないことですね。

みんな自分が分からない

痛かったでしょう。そうするのも辛かったでしょう。
でも、自分でもわからずともそうしてしまうことに何か意味を見出してしまっているのかな??誰かに認めて欲しい、いや自分自身で認めたい…そういう自分が確かに今・ここにいることをその行為によって感じられるのかな?

お身体大事にしてくださいね。

さて、もうずっとお悩みでハスノハでも色んな事柄についてご相談いただいていますね。悩みの現れ方はその時その時のものだけど、ゆんゆんさんにとって根本的な悩みの元は何なのでしょうか?

中学生の頃のことでしょうか?お姉さんとのことでしょうか?親御さんとのことでしょうか?

色んな要因があるのでしょうが、今回おっしゃっていただいた「自分が分かりません。」ということの尽きるのかな?

自分とは一体何でしょうね。

少し難しい話になってしまいますが、仏教では自分とは五蘊(ごうん)であると見ます。

①色蘊(しきうん) - 肉体
②受蘊(じゅうん) - 感受作用
③想蘊(そううん) - 表象作用
④行蘊(ぎょううん) - 意志作用
⑤識蘊(しきうん) - 認識作用

の5つです。簡単に言うと、どこかに「自分」あるいは「本当の自分」というような「固定的な実体」があるのでなく、その時々・一瞬一瞬においていろんな縁(条件)によって存在が成り立っているのが「自分」・「私」ということになります。

お友達の前の私も、親の前の私も、悩み私も、笑う私も、アームカットしてしまう私も…どれかが偽物の私で、どれかが本物の私なのではなく、どれもその瞬間においてそれが私です。自分探しをするまでもなく、今・ここにしか私はいません。

でも私がその私を認められない・受け入れられないと私が私でないものになろうとして私は苦しみます。
それをそのままの私に目覚めさせてくれる教えを仏法、目覚めさせてくれる存在・はたらきを仏様と言います。

みんなそのままが苦しいから悩むのですが、実はそのままでなくなろうとして苦しんでいるのが他でもない私なのかもしれません。

仏様はいつも「そのままでいいんだよ」とおっしゃります。それもどこか遠くに仏様がいるのではなく、「私がそういう私に気づく」ところに仏様がいるのです。

ゆんゆんさんにとってそういう場所が見つかる様、あるいはゆんゆんさんがそういう自分に気づく様に願っています。

またいつでも。

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個別相談可能
はじめまして。北海道の片田舎の農村のお寺で住職をしております。 人生経験も仏法聴聞も、まだまだ未熟な私ではありますが、皆様のお悩みに対し真摯に向き合い、共に悩み共に考えたいと思います。 お話しする内容は「こたえ」ではありません。仏法を聞いてもお金が儲かるわけでも、人間関係に恵まれるわけでも、病気が治るわけでも、何ものにも左右されない心の持ち様が手に入るわけでもありません。 仏法の救いとは悩みが私の思い通りに解決することでなく、どんな悩みも私の現実として引き受けて、悩みながらも生きていけることだと私はいただいております。 悩みを救う(解決する)のではなく、悩む人を救う(悩む私という存在を引き受けていける)のです。 「こたえ」ではなく、「問い」を共有することで、悩み苦しみを引き受けて生きていける一助となれれば幸いです。 【回答について】 後から読み返し、誤字脱字に気づいた際は訂正を入れます。訂正ではなく、お礼コメントへの返信のため追記する場合はタイトルに〔追記あり〕と記載します。 なお、タイトルも本文も字数制限があるため際限なく追記できないこともご承知おきを。
基本的には平日13時~15時のみ対応可能です。お寺の行事、急な法務で対応できない場合もあります。

癒し

ゆんゆん様

川口英俊でございます。問いへの拙生のお答えでございます。

やはり、過去における心的ストレスが潜在的な原因であるのではないだろうかとは存じます・・

衝動的な癖になってしまっているのかもしれませんね・・

心的ストレスの原因へのアプローチと共に、やはりしかるべき癒しも必要ではないだろうかと存じます。

これまでもご質問を頂いておりますように、自分に向き合っていくことにて、少しずつでも構いませんので、一つ一つここhasunohaで、心の奥底にあるものを解放するように、お抱えの思いを出していって頂けましたらと存じます。

私たちもまた、その思いと真摯に向き合っていけましたらと存じます。

川口英俊 合掌

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最新の仏教論考はこちらでご覧頂くことができますが、公開、非公開は随時に判断しています。 https://blog.goo.ne.jp/hidetoshi-k

質問者からのお礼

どうもありがとうございます。

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