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自分がわからないです

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長くなりますが読んでいただきたいですお願いします。
彼氏との事で悩み、その悩みを他人に相談できない事で更に彼氏以外の対人関係についても悩んでいます。

【 例えば昨日彼氏と遊んだのですが、、】
・お互い夜勤明けで現地集合
・彼氏が40分遅刻(※遅れたことは私は別に怒ってないです)
私「遅い!!笑」とふざけて笑いながら言う
彼氏「夜勤明けで来てやってんのに何なの」
私「いやノリで言っただけだよ...(来てやってるって何.)」
彼氏「お疲れ様とか言ってくれんの?」
私「おおう、お疲れ様...(私も夜勤明けだしその前に遅れたこと一言謝らないの..)」

・・・という感じで、元からラーメン屋へ行くと決めていたのですが、

彼氏「夜勤明けにラーメンはしんどいわ俺食べれん」
私「じゃあ別のところいく?何食べたい?」
彼氏「いやいいよ我慢して食べるから」
私「我慢してとか言われちゃ食べ辛いな私(笑いながら)」
→彼氏、大盛りを頼んでぺろっと完食。我慢は何処へ。

-----------

という感じに理不尽に機嫌が悪くなる事が多々あり、とても疲れてしまいます。彼氏は6つ歳上なのに呆れてしまうことがあります。

そういう事があると「もう1人になりたい」と思ってしまうし、明るく振る舞ってしまうのですが 家で1人で泣いてしまう事もあります。

でも私は彼氏の機嫌が良くて優しい時の幸せな感覚がどうしても前に来て、冷静になるとその「もう1人になりたい」という突き放す感情が消えています。
愛着障害のせいもあり依存体質だとは思います(プロフィールを読んで頂きたいです)

1人になりたいとも思うし、
どこかで孤独を感じてるくせに人を寄せ付けたくなくて、
彼氏に限らず知り合いに 人に相談するのが苦手で、
上辺の友達や寄ってきてくれる人はいるけど自分がそれを受けつけれなくて 部屋で1人でいる時しか本当の自分でいられない気がして、
どこかひねくれた子供のままの自分に苛立って、
1人になった方が楽なのか、
自分が何を考えているのか、
全部わからなくなりました。
人と一緒にいること自体向いてないのかなとも思います。

彼氏に対してどうするべきか、
私の気持ちは何なのか(どうすれば自分の気持ちがわかるのか)、
私は頭がおかしいのか、
教えていただきたいです。

読んで頂きありがとうございました。


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お坊さんからの回答 1件

回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。

速攻、別れるべしっ。

そんな自己中のネガティブ男性と結婚したら結婚生活地獄です。
その性格があなたに迷惑をかけていることに自覚がないことがまず問題。
あなたも彼を失いたくないからか、何も言わないで我慢していることがもっと問題。
いずれストレスがたまって爆発するでしょうから、さっさとわかれるか、相手の精神性を向上させるべくうちのお寺の坐禅会にでも連れてきてください。
人生はネガティブであると損です、苦しみです、無駄です。
無駄なことは無いと言いますが、あるにはある。
三回彼に対して、生き方ポジティブのススメをして変わらなければ、あなたも真剣にパートナーを選んだ方がいいです。
あなたがお子さんを授かった時、彼が与えられる人でないと家庭は崩壊します。
いい人であることをやめた方が身のためです。
さびしいからってダメ男と一緒に居てもあなたの幸せ度はどんどん下がるだけ。
人間は誰もが自分中心な面があります。
彼はおそらく仕事でお疲れモードなのでしょう。
励ましてあげたりするのもよいでしょうが、あなたはあなたで本当にこの人で幸せになれるかどうかを本当によく考えた方がいいです。

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有り難し
おきもち

お悩み相談08020659278
今月の法話 文殊の剣 ❝己がそのものを観ていながらそこに余計な色や思いをつけたさぬその己の様子を「こそ」見届けてみてください。❞(本文より) 「大丈夫、慧の剣を取る。」 大いなる菩薩や老師は智慧の剣を取って、人の迷いの見解を断ち切り真実の姿をみせてくださいます。 智慧の剣とは人間の自我、我見の無いこころからなる、無垢で清らかなる「事実の様子」「本来の様相」を見極める力ともいえましょう。 それこそが智慧の剣なのです。 文殊とは自己を鎮め得た者の姿。 人間の内なる思慮分別の猛獣を修め得て、その上に鎮座する姿。 事実を事実のとおりに見るということは、余分なものがないということです。 そこに現れる余分な見解というものを断ち切った姿。 そもそも、もともと一切の事象、事実というものには余分なものはありません。 とは言えども、それでも人は人の習癖・習慣的に物事に思いをつけたす。 いまや「写真で一言」という要らぬ添え物をするバラエティ文化もあるぐらいですから、ものを本当にそのままに受け取るということをしない。 文殊様の持つ剣、智慧の剣というものは、そういう人間の考えを断ち切る働きを象徴したものです。 その文殊の剣とはなにか? お見せしましょう。 いま、そこで、みているもの、きこえていること。 たとえ文字文言を観るにしても、そのものとして映し出されているという姿がありましょう。 文字として見えているだけで意味を持たせてもいない、読み取ってもいないままの、ただの文字の羅列のような景色としてみている時には、文字であっても意味が生じません。 本当にみるということはそこに安住しています。他方に向かわない。蛇足ごとが起こらない。 見届けるという言葉の方が適しているかもしれませんね。 ❝己がそのものを観ていながらそこに余計な色や思いをつけたさぬその己の様子を「こそ」見届けてみてください。❞それはものの方を見るというよりはそれを見ている己を見つめる姿ともいえましょう。 そういうご自身のハタラキ・功徳に気づく眼を持つことです。 あなたの手にはすでに文殊の剣がありますよ。用いることがないのはもったいないことですね。

質問者からのお礼

ありがとうございました。
本当に助かりました。

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