父が自死した友人
高校以来ずっとつきあいのある友人のことです。
高校生の時、友人が突然休みました。仲の良かった私と数人だけが教師に呼ばれ、友人の父が自死したので欠席していることを知らされました。
私と友人たちはどう接すればいいのかわかりませんでした。
数日後、登校した友人は休んだ理由をはっきり話さず、父親が亡くなったことも口にしませんでした。私たちは知らないふりをしていつも通りに接し、結局卒業までそのままでした。
20年近くたち、最近になって友人が自ら「父が死んだこと」「自分がどう感じ、考えてきたのか」を口にするようになりました。お父様の自死にははっきりとは触れません。
私が当然知っていたと考えているようです。私も今さら驚いた風もしませんでした。
事実を知りながら、彼女の気持ちを放置したも同然な高校生時代からこれまでを思うを、今更どうすれば償えるのでしょうか。
今でもいい友人です。彼女自身はお父様の死を自分なりに昇華しているようにも感じます。
これまで通りで良いのでしょうか?恩のある友人です。今更でもできることはあるのでしょうか?
回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
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長い年月を要し出会える自己-それは成長の証です
亀山純史と申します。
あなたとあなたの友人との関係は、今まで通りのままでいいのではないでしょうか。20年近く経って高校時代のことを口にした友人は、そのことを話すまでに、それだけの年月を要したということだと思います。人は常に、「あの時、ああすれば良かった。」と思うものです。しかし、そのように思える自分に出会うには、それだけの年月を必要としたとも言えるのではないでしょうか。私の宗派の宗祖である親鸞聖人は、20年間の比叡山での修学ののちに、比叡山を下山し、念仏への道へと進まれました。その時、親鸞聖人にとって比叡山での20年間は無駄だったのでしょうか。私は親鸞聖人が念仏に出会うには、20年間もの月日を要したのだと思うのです。私自身も、過去の自分を情けなく思い、後悔することもしばしばです。でも、一方では、若き日の自分には、過去を後悔している今の気持ち、考えを持つことなど、難しいことではなかったか、とも思うのです。人は常に成長しています。過去の自分を後悔するのは、自分が成長してきた証でもあると思うのです。これからも、友人を大切にした人生を歩んでください。
見守ることもできる
とっこさん、はじめまして。
法話と天井絵の寺、觀音寺 中村太釈です。
とっこさんは、彼女の気持ちを放置したも同然な高校生時代からこれまでのことを償いたいと思っているのですね。
実の父が亡くなったことを受け入れていくことだけでも難しいものです。その上、自死であったことで、さらに悩みが深かったことでしょう。
しかし、とっこさんをはじめ20年もの間、見守ってくれた人がいたからこそ、彼女は立ち直ろうという気になったのであり、とっこさんにお父さまのことを話そうという気になったのではないでしょうか。
見守ることも、彼女に対する愛情なのです。彼女も、それは分かっていると思います。
質問者からのお礼
亀山様、中村様、ありがとうございました。
友人は当時からお父様を亡くされたとは思えないほど淡々としており、そのまま20年が経過しました。途中、ほかのことで相談されたり愚痴ることはありましたが、お父様のことにだけは触れませんでした。それだけに、どれほど彼女にとって重いことだったのだろうと思うと、自分が情けなく申し訳なく・・・
彼女と比べると成長したとは言えない私ですが、これからも大切な友人として付き合っていきます。
ありがとうございました。