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友人との付き合い

回答数回答 1
有り難し有り難し 8

私には8年ほど、付き合いのある、ママ友がいますが、お互いにバツイチどうしでは、ありますが、考え方、生き方も全く違うので、しばし衝突もあり。友人は男の人が居ないと生きていけないタイプ、甘えて頼りたがり。私は男に頼るなら自分でタイプ。きょねん、男の人が原因で大喧嘩をして、お互いに口も聞かず疎遠になっていました。友人は、彼氏ができ、かなり強きで私との縁を切りました。そんな彼女と1年ぶりに会い、話をしました、はじめは…少し変わったかなと思い、連絡をとりあいましたが、話していくうちに、彼氏優先で、子供を、おいて泊まりにいったり、他にも男の人がいて、1年で、変わるどころかひどくなっていました。彼女の人生だからと思いましたが、まわりからは、彼女にかかわらない方がいいと言われ。ただ、人情柄付き合ってしまう自分が、嫌で、散々裏切られたのに。。この先彼女とは、関わりをもたない方がいいのでしょうか?
彼の事で相談にのったりしてるのですが、人の話を全く受け入れず、忠告などは、全くきいてくれません。バカにしてる態度それでも、私は見捨てられないんです。そんな自分が嫌です。質問がわかりにくいですね。そんな友達って。付き合わない方がいいのですかね。


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お坊さんからの回答 1件

回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。

あなたは自分を生きるよりほかにない。

友達という言葉に縛られているだけです。
親友ではないのでしょう。
そんな義理堅く付き合うと身が持ちませんよ。
人間、優先順位というものがあるものです。そしてそれは自分で組み替えられるのです。
愚かしいことをやり続けて、自分の身に良くないと思ったら、それは後回しにすればいいのです。
自分の心が現に負担に感じている訳ですから、見限ることも大事です。
いい影響を与えてくれる人間こそが❝友❞なのです。
勝友、最勝の友といいます。
あなたがまず、人間性の向上を求めることです。
私はそうはなるまい、と思っていても、付き合っていれば同類です。
本当に友達思いを実行するのであれば、寂しいのは分かるけど、それって絶対に〇〇ちゃんに良くないし、〇〇ちゃん、絶対気づいていると思うよ。子供って敏感に察知するんだって。将来的にも絶対に良くないから、もう少し〇〇ちゃんの❝お母さん❞で居てあげた方がイイと思うよ。〇〇ちゃん、不安定になってるんじゃない?お母さんのこと好きだから嘘ついてまで大丈夫なフリするんだって。もうやめようよ。私は、あなたにもっと人間性の向上を持ってもらいたいと思っているの。子育ての為にも、一緒に、その気持ちを大切に持っていかない?時々道外しちゃっても構わないから…、と善き道に導いてあげてください。
たとえその場で伝わらなくても、必ず気づくときが来るでしょう。
あなたはあなたの人間性の向上を求めてホトケの教えをもっと学んでください。
それが菩提心というものです。菩提心があれば、決して人生はブレることがありません。

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有り難し
おきもち

お悩み相談08020659278
今月の法話 文殊の剣 ❝己がそのものを観ていながらそこに余計な色や思いをつけたさぬその己の様子を「こそ」見届けてみてください。❞(本文より) 「大丈夫、慧の剣を取る。」 大いなる菩薩や老師は智慧の剣を取って、人の迷いの見解を断ち切り真実の姿をみせてくださいます。 智慧の剣とは人間の自我、我見の無いこころからなる、無垢で清らかなる「事実の様子」「本来の様相」を見極める力ともいえましょう。 それこそが智慧の剣なのです。 文殊とは自己を鎮め得た者の姿。 人間の内なる思慮分別の猛獣を修め得て、その上に鎮座する姿。 事実を事実のとおりに見るということは、余分なものがないということです。 そこに現れる余分な見解というものを断ち切った姿。 そもそも、もともと一切の事象、事実というものには余分なものはありません。 とは言えども、それでも人は人の習癖・習慣的に物事に思いをつけたす。 いまや「写真で一言」という要らぬ添え物をするバラエティ文化もあるぐらいですから、ものを本当にそのままに受け取るということをしない。 文殊様の持つ剣、智慧の剣というものは、そういう人間の考えを断ち切る働きを象徴したものです。 その文殊の剣とはなにか? お見せしましょう。 いま、そこで、みているもの、きこえていること。 たとえ文字文言を観るにしても、そのものとして映し出されているという姿がありましょう。 文字として見えているだけで意味を持たせてもいない、読み取ってもいないままの、ただの文字の羅列のような景色としてみている時には、文字であっても意味が生じません。 本当にみるということはそこに安住しています。他方に向かわない。蛇足ごとが起こらない。 見届けるという言葉の方が適しているかもしれませんね。 ❝己がそのものを観ていながらそこに余計な色や思いをつけたさぬその己の様子を「こそ」見届けてみてください。❞それはものの方を見るというよりはそれを見ている己を見つめる姿ともいえましょう。 そういうご自身のハタラキ・功徳に気づく眼を持つことです。 あなたの手にはすでに文殊の剣がありますよ。用いることがないのはもったいないことですね。

質問者からのお礼

ありがとうございます。この友人と疎遠になっている間は始めは、寂しくもあり、怒りもあり色々ありましたが、次第に気持ちも楽になりました。空気も何もかも軽く。そして又会ってから何となく空気も重く、スッキリしない日々が。。脱力もあり。。自分がダメ人間なっている気がして。。相手優先に考えてしまう、自分が。。います。もっと強くならなければ。

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