hasunoha お坊さんが必ず答えてくれるお悩み相談サイト

お坊さんに質問する
メニュー
メニューを閉じる

南無阿弥陀はどんな時に唱えるのですか?

回答数回答 3
有り難し有り難し 53

はじめまして。
このサイトを知ってから、仏教やお坊さん、お寺に興味を抱き、仏教について勉強中の者です。
先日、テレビを観ていると、檀家さんから頂いた鮎を住職さんが調理する前に「南無阿弥陀」と唱えておられました。(南無妙法蓮華経だったかもしれません)
仏教では(自分の為の)殺生はいけない事だと知りましたが、私は害虫などは殺してしまいます。
その様な時に「申し訳ない」と言う気持ちを込めて南無阿弥陀を唱えれば良いのでしょうか?
南無阿弥陀は「阿弥陀さまを信じています」と言う意味だと本で読んだのですが…

鮎を頂いた時の住職さんが唱えた「南無阿弥陀」はどの様な心情だったのでしょうか?

どの様な心情の時に南無阿弥陀を唱えるものなのでしょうか?
教えて頂くと有難いです。
よろしくお願いします。


この問答を娑婆にも伝える
facebookTwitterLine

お坊さんからの回答 3件

回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。

いつでも、どこでも、称えたい時に

南無阿弥陀仏はいつでもどこでもあなたが称えたいと思ったのなら称えてください。

鮎を頂いた時の住職さんが唱えた「南無阿弥陀」はどの様な心情だったのかは私にはわかりません。

「申し訳ない」だったのか「ありがとう」だったのか「我が身が恥ずかしい」だったのか、色んな事が想像されますが、唯一言えることは

「お念仏しよう」という気持ちがはたらいた

ということです。

その気持ちは私の意志を超えているのです。私が口に出して称えてはいるのですが、称えようという気持ちは私が起こしたものではありません。そして称えられたという事実も私の力だけで成り立つものではありません。

「お念仏申そう」という気持ちが思い立ったこと、そして実際に「お念仏申せた」ということ

ここに思いを馳せていただきたいのです。

「お念仏申す」(原因)ことによって「どうにかなる」(結果)

のではなく

「お念仏申した」(結果)のはなぜなのか、どういうことがそこに願われているのか(原因)

というように果(まさに今こうなっているという現実)から因(その願い・背景)をたずねていただきたいのです。

そのお心を仏説無量寿経に説かれる法蔵菩薩の物語に尋ねていただきたいのです。お念仏で私たちを救おうという阿弥陀仏の願いにまで立ち返っていただきたいのです。

そこに触れていくうちに、「どんな時に唱える(称える)のか?」という疑問は形を変えていくのかもしれません。

私もどうしても殺生をしてしまいます。ウソをつくこともないとは言えないです。利養名聞の心もなくなりません。

それでも「あなたをそのまま救うよ」という南無阿弥陀仏の呼声によって救われるのです。そして「そのままでいいよ」という場所を得るからこそ、「そのままでいいのか」とそんな我が身を問うていけるのです。

私が南無阿弥陀仏とお念仏申せるということは、阿弥陀仏の方が先んじて私の方に南無阿弥陀仏と呼びかけてくださっているということです。

赤ん坊が「お母ちゃん」と呼べるのは、先んじて母が「お母ちゃんだよ」と呼びかけていたからです。

どうぞお念仏申そうと思い立ったそのままにお念仏申してください。

南無阿弥陀仏

{{count}}
有り難し
おきもち

はじめまして。北海道の片田舎の農村のお寺で住職をしております。 人生...
このお坊さんを応援する

罪の報いから免れたいときに

三宅師が説明されたとおりですが、
他には、
罪の報いから免れたいとき(罪をおそれたとき)もあります。
阿弥陀仏は、どんな悪人でも念仏すれば極楽浄土に往生させてくださいます。

自分の罪を恐れたとき、自分が悪人だと感じたとき、阿弥陀仏にすがる以外に救われようがない愚かな者であると痛感したとき、阿弥陀仏に救いを求めて南無阿弥陀仏をとなえたくなります。

{{count}}
有り難し
おきもち

がんよじょうし。浄土宗教師。「○誉」は浄土宗の戒名に特有の「誉号」です。四...
このお坊さんを応援する

基本的には、阿弥陀様、私が命終わる時にはどうか迎えに来て極楽浄土へ連れて行って、仏に成れるように導いてください。という願いを込めて唱えます。
あるいは、極楽浄土へ連れて行き成仏させてくれることを感謝して唱えることもあります。
また、他の人に対しても同じように、極楽浄土へ連れて行き仏に成るように導いてくださいと願って唱えます。
また、動物や虫など他の命に対しては、どうかこの生き物が次に人間に生まれ変わりますように、という気持ちで唱えることもあります。
南無阿弥陀仏の南無とは、信じています、というだけでなく、お任せします、という意味もあるのです。
死後のことなど私達非力な人間にどうにもならない事は、最後の頼みとして阿弥陀様にお任せするほかにない、お任せしたから何も心配要らない、ということなのです。
南無阿弥陀仏

{{count}}
有り難し
おきもち

私は浄土宗の坊さんです。 少しでも何か参考になればと思って回答しています...
このお坊さんを応援する

質問者からのお礼

お礼が遅くなり申し訳ございませんでした。
そして、ご回答頂いたお坊さま、ありがとうございました。
お坊さまのお話を聞ける事がとても嬉しいです。
お礼が遅くなりましたのは、正直なところ、コメントに困ったからです。
なんて、文章に表せば良いのか…。
まだ、私には充分に理解出来ていないのでしょうね…。
だけど、南無阿弥陀は唱えたい時にいつでも唱えても良いのだと言う事を知りました。ありがとうございます。
少し、阿弥陀さまが身近に感じられそうです。

「仏像・仏様・阿弥陀・観音」問答一覧

神様も仏様も、必ずしも信じられない

以前「何を信じて生きていけばいいかわからない」ということで投稿させていただき、ご回答もいただいたのですが、やや気になる点があり追加で質問させていただきたく。 自分としては誠実にあろうと生きたつもりでした。 でも、家族間でも、仕事でも、あったことをなかったことにされてみたり、なかったことをあったかのようにされてみたりで責められ、うつ病にもなり、とうとうここ1年半くらいは引きこもりや寝たきりに近い状態になってしまいました。 物の善悪も、何を信じて生きていけばいいかもわからなくなりました。 それでも回答をいただき、自分を大切にして、やはり今までの自分を信じて誠実に生きていく方が良い方向へ向かえるだろうと思えてきました。 そうする中で、もう一回本気で取り組める仕事にも出会いたいし、楽しい趣味も見つけたいし、心穏やかに落ち着いて生きていきたいとも考えています。 ただ、「神様や仏様は見ている」という言葉が回答の中にあり、少し暗い気持ちも残ってしまいました。 神様や仏様がいるのなら、どうしてここまで至る前・・・あの時に助けてくださらなかったのか。あの時、あのひどい扱いをしてきた者たちに報いを与えて下さらなかったのか。もし私が間違っているというのなら、こうなるまでにそれを教えて下さらなかったのか。何ならば、今の私を救ってくださらないのか。何が足りないというのか。 そんな汚い感情を払拭することが出来ません。「神様仏様はそういう都合のいいものではない」、もしかすると「私が以前の何かの報いを受けているだけだ」、と言われてしまうかもしれませんが・・・。 そう考えると、 『本当に今まで通り真面目に誠実に生きる方向で大丈夫なのか?』 『今までの道徳をすべて捨て去るようなこともしなくていいのか?』 『それで「誰かに都合のいい人間」でなく、自分が良い人間となり、よき人生を送れるのか?』 汚い感情と一緒に、まだそういう迷いも多少残っています。 「よき人生を送れるかはわからないけど、無理に全部変えないで、今までのものをアップデートする形で十分じゃないかな」とは思うのですが。 神様や仏様に求めすぎるような汚い思いや、そもそも神様や仏様といった存在にどう向かいあうべきなのか。そして落ち着いた心で生きるためのアドバイスをいただけますと幸いです。

有り難し有り難し 6
回答数回答 1

薬師観音様にご挨拶した時のことについて

#お参り#仏像・仏様・阿弥陀・観音 初めて相談させて頂きます。 ありがとうございます。 観音様にご挨拶した時の不思議な体験について、何か気づきを得させて頂ければと思い投稿させていただきます。 よろしくお願いいたします。 先日、お客さんから、川見四季桜が綺麗だったよ、栗きんとんが美味しいよと教えて頂き、天気が良い日に母と出かけました。 可愛らしい桜と、綺麗に赤く染った紅葉と、綺麗な和紙の作品と色々見て、有難く大満足な1日でした。 桜と紅葉を楽しんでいたところ、川見薬師寺に続く階段を見かけて、ご挨拶しようと、急な階段でしたので慎重に登って行きました。 やっとの事で登りきると、正面少し奥に、薬師観音像が見えました。 その時、観音様は私から見て右真横を向いていましたが、一瞬で正面を向かれ、目が合いました。 明らかに目の前で起きた事への理解が追いつかず、何か見てはいけないものを見てしまったのではないかと暫く見つめ合ったまま固まってしまいました。 母に促され、観音様の目の前まで来て、先程のことは一旦離れて、感謝とご挨拶をしました。 先程感じた強い違和感は無いものの、やはり目が合い、微笑んでいるように見えました。 ふと、右真横の目線の先が気になり、確認しに行くと、お寺で飼われている、老犬がいました。 わんちゃんにも挨拶したあと、少し下った先にあるお清めの水が湧き出ている場所に行き、そちらの観音様にご挨拶した際も、やはり目が合い微笑んでいる感じがあり、また呼吸して生きている様に見えました。 その日は1日とても楽しい体験をさせて頂き、ありがとうの気持ちでいっぱいでした。 加えて、人生で初めての体験、感覚ばかりでしたので、不思議に思っております。 拙い文で申し訳ありません。 改めて、よろしくお願いいたします。

有り難し有り難し 6
回答数回答 1

観音様へのお願い事について

とある観音様が祀られているお寺にお参りに行った際の事ですが。 初めて訪れたお寺でした。 ウロウロしていると案内して下さる方が出てきて、一通り大まかに説明して下さって、そしてお参りする際に、 「~いくらでもお願い事して大丈夫ですよ~」 と、確か言った気がしました。 一瞬「聞き間違えたかな?…」と思ったのですが…。 観音様のご利益を検索すると、 「…あらゆる願い事を叶える、救いの手を差し伸べる、云々…」らしく載っているのを散見できます。 ですが、参拝者がお参りする際、お賽銭(お布施)って、5円、10円、100円…とか小銭をする場合が凡そ大抵だと思います。 知識がある人なら封筒包で千円単位を包む事はあると思いますが、少数かと思います。 ※ちなみに、神社へのお参りの場合、願い事の規模の大小に依ってそれなりの金額をお賽銭すべきであろぅ、といぅ意見/考え方を聞いた事はあります。 いくらでもお願い事して大丈夫…とは言え、小銭程度で5個も10個ものお願い事するって対価に合わないんじゃ…と想像したのですが、 「Q:そもそも観音様ってお賽銭の額が小銭だから云々…に関わらず、人々の願い事を個数に拘らずに聞いてくださる仏様なのだろうか?という素朴な疑問です」 まぁ、他の仏様、如来/菩薩/明王様…の場合はどうなのか、も詳しく存じ上げていませんが。

有り難し有り難し 15
回答数回答 2

温かい気持ちになるお坊さん説法まとめ