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孤独に耐えられない

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有り難し有り難し 14

外国人の彼氏がいるのですが、彼のことが信用できません。
それが辛くて辛くてたまりません。

海外で一人で暮らしているため、常に寂しさを感じています。
そのため彼氏ができると安心感がとてつもなく心地よく、執着してしまいます。

数か月前、実際に軽い浮気(他の女性とデートをする)や、
元彼女と連絡を取り合っていることを目撃し、不信感でいっぱいになってしまいました。

彼からは謝罪がありましたが、根本的に変わってないので(そう感じる)今何してるんだろう…と常に気になりストーカーのようになってしまいます。

日本にいるときは彼氏がいなくても平気でした。
また彼氏がいるときは相手を信用しており、飲み会であろうと女性と二人っきりでいようと気になりませんでした。

年を重ねるごとに、心の底では結婚したい(落ち着きたい・子どもが欲しい)という願望が強まっているのは認識しています。
ただキャリアを築きたい気持ちもあり、それは男性に依存する女性になりたくないという気持ち(恐れ)でもあります。

仕事は非常にハードです。精神的にも肉体的にもタフでないと務まらない仕事だと言われています。
正直この仕事は嫌いです。自分の成果が周りに認められているのは自覚していますが、ストレス負荷も高いため常に逃げ出したいと思っています。

最近は仕事でミスが続き、彼氏も海外旅行に出ており、どうにも自分の気持ちが整理できません。
彼氏は友達(元彼女)に会うかもしれません。本人がそう言っていました。

そんな彼氏と別れればよいのですが、一人になった時の苦しみに耐えられる自信もなく、自分で何がしたいのかさえ分かりません。

心を整理する方法はないでしょうか。


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お坊さんからの回答 1件

回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。

条件付けを変えていく

自分の中で、こうでなければいけない、こうあるべきだ、これがいい、これがのぞましい、こうでないときっとこうなる、こうなるとtheピンチが勝手に想定されちゃっているところが自分を縛ってしまているのです。
彼氏がいる、いないの云々ではありません。
条件付けは、自分が作っていマイルールですから、マイルールだけに毎回毎度変えられます。
今日の天気も毎度毎回変わるわけですから、自分のルールも毎回同じでない方が良いというものです。
付き合っている、付き合っていないという図式も頭で「そうだ」と設定しているだけのこと。
実際彼氏は他の女のとデートしてるんですから、それがその男のルールというもの。
あなたはあなたのルールに縛られず、その地において新しい生き方処し方を見出すべきです。
人は異性によってのみ幸せになるのではありません。
不幸・孤独・想念に縛られるのは、自分が今置かれているその状況をそのままその通りに受け取めずに、自分の中で期待する設定があるがゆえにその想念に縛られるということがあるだけなのです。

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有り難し
おきもち

お悩み相談08020659278
今月の法話 文殊の剣 ❝己がそのものを観ていながらそこに余計な色や思いをつけたさぬその己の様子を「こそ」見届けてみてください。❞(本文より) 「大丈夫、慧の剣を取る。」 大いなる菩薩や老師は智慧の剣を取って、人の迷いの見解を断ち切り真実の姿をみせてくださいます。 智慧の剣とは人間の自我、我見の無いこころからなる、無垢で清らかなる「事実の様子」「本来の様相」を見極める力ともいえましょう。 それこそが智慧の剣なのです。 文殊とは自己を鎮め得た者の姿。 人間の内なる思慮分別の猛獣を修め得て、その上に鎮座する姿。 事実を事実のとおりに見るということは、余分なものがないということです。 そこに現れる余分な見解というものを断ち切った姿。 そもそも、もともと一切の事象、事実というものには余分なものはありません。 とは言えども、それでも人は人の習癖・習慣的に物事に思いをつけたす。 いまや「写真で一言」という要らぬ添え物をするバラエティ文化もあるぐらいですから、ものを本当にそのままに受け取るということをしない。 文殊様の持つ剣、智慧の剣というものは、そういう人間の考えを断ち切る働きを象徴したものです。 その文殊の剣とはなにか? お見せしましょう。 いま、そこで、みているもの、きこえていること。 たとえ文字文言を観るにしても、そのものとして映し出されているという姿がありましょう。 文字として見えているだけで意味を持たせてもいない、読み取ってもいないままの、ただの文字の羅列のような景色としてみている時には、文字であっても意味が生じません。 本当にみるということはそこに安住しています。他方に向かわない。蛇足ごとが起こらない。 見届けるという言葉の方が適しているかもしれませんね。 ❝己がそのものを観ていながらそこに余計な色や思いをつけたさぬその己の様子を「こそ」見届けてみてください。❞それはものの方を見るというよりはそれを見ている己を見つめる姿ともいえましょう。 そういうご自身のハタラキ・功徳に気づく眼を持つことです。 あなたの手にはすでに文殊の剣がありますよ。用いることがないのはもったいないことですね。

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