自分の根底にあるものが分からなくなりました…。
私は自分なりに考えた結果、他人にしてほしいことは自分が率先してやるべきだ、というルールを自分に課していました。
小さなことでも他人に親切にするよういつも心掛けていました。情けは人の為ならずという言葉通り、いつか自分に返ってくると信じて始めたことなのですが、いつからかそうしないと気が済まなくなりました。
良いように利用されて切り捨てられたことも何度もありましたが、運が悪かったと思うことにして、このルールを自分に課すことはやめませんでした。
気付けばいいように使われては切り捨てられ…を繰り返しすぎて友達が1人もいなくなっていました。仮にも自分なりの生き方の根底にある芯のようなものを否定したくは ないのですが、もうこれ以上どうすればいいのか、どうすれば良かったのか全くわかりません。自分はこれから、どうすればいいのでしょうか…。
回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
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菩薩と仏の違い
ある老師に「菩薩と仏の違いは何でしょうか?」と聞いたら、
「菩薩は人を救わなきゃいけないと思っている。仏は、人を救わなきゃいかんという事もなく救える。その違いだ。」とのお答えを頂きました。
あなたは菩薩の行としては尊いのですが、人を救わなきゃ、人に親切にしなきゃ、ということに縛られているのです。
ボランティア精神にも様々あります。
やらなきゃいけない、絶対にやらなきゃいけない、という押しつけがましい義務的ボランティアでは、ボランティアしてもらう側も暑苦しいというものです。
自分で作った自分ルールによって縛られ、それによって不幸になるという事であれば、そのルールこそ捨てるべきものです。
しかしあなたは、それを捨てがたい、のです。自己否定につながると錯覚しているのです。
そんな事はありません。そのルールだけ捨ててしまえばあなたは瞬時にリニューアルされます。
尊いと感じます。でもタイミングが。
きょうび、生き馬の目を抜くような世の中で、「自分から進んで親切にする」のは尊いことと思いますが、同時に「都合のいいやつ」=使いやすい奴、にされてしまうことは、確かにあると思います。寂しいことです。
ただ、「他人のためならず」というのは、「見返りを求める気持ち」に対して、取り敢えず今、解答を得ておくという「その場しのぎ」なのかも知れません。
そう言われると、お先真っ暗な感じがするかも知れませんが、私から見るに、実は「他人のためならず」を使うタイミングを誤っているように見えます。つまり。
自分がする時に「他人のためならずだから」ではなく、何か返ってきた時に、「ああ、ただ他人のためになったダケではなかったのだ」と気づく、そのタイミングの問題ではないかと思うのです。
あなたはおそらく、既に「困っている他人がいたら助ける」ということが身体に定着していると思います。ですから「ふと」手を出してあげたい時にすれば、それで良いのです。
ちょっと分からないのは、通常「親切な人」というのは、より頼られるようになるので、友達が減るとは考えにくいのです。メカニズムがあるとすれば、「断らない、賛成する、都合を合わせる」ことであなたが得てきたメリットは何かということです。(通常、メリットの副作用には、あまり目を向けないものです)
時々親が言いますね、「子どもの言うことは、何でも叶えてあげたい」と。でもこれ、失敗の道なのです。何でも子どもの言う通りではなく、時に「これ以上は駄目だよ」という、限度や壁を示すのも、親の役目です。「何でも」の親は、「子どもの意思と親の思いをすり合わせる・折り合う努力、否定したことへの後始末」をパスしてしまっているのです。すると子どもはエスカレートし、折り合いに慣れていない双方は「キレて、断絶」に向かいます。「友達がいなくなった」というのは、そういう経路をたどる事があり得るかな?と思います。
何れにせよ、「生きていく上での信念」は、どんどんアップデートしていって良いのです。バージョンアップの時は、基本的に「当然と思っていた事を疑う」のが含まれます。いま問題に直面しているという事は、あなたの成長の時が近い証だと思います。
「ふと」でない時には、交渉というか納得が必要なのだろうと思います。
どこかで見返りを期待している自分がいる
人のため人のためと言いながら、こうしたらお礼を言われる。とか利用されたくないとか、そうしたあなたの計らいが頭の中に存在してませんか。
そうした思いが、自分を苦しめます。自分の事のように当たり前に人にできないのであれば、進んでやる事をやめればいいと思います。自分を学んでください。自分がどのようになっているのか、それを知る事が大切です。
仏道を学び、当たり前に人のためにできる慈悲の心を持てると良いですね。