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自分の根底にあるものが分からなくなりました…。

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有り難し有り難し 16

私は自分なりに考えた結果、他人にしてほしいことは自分が率先してやるべきだ、というルールを自分に課していました。
小さなことでも他人に親切にするよういつも心掛けていました。情けは人の為ならずという言葉通り、いつか自分に返ってくると信じて始めたことなのですが、いつからかそうしないと気が済まなくなりました。
良いように利用されて切り捨てられたことも何度もありましたが、運が悪かったと思うことにして、このルールを自分に課すことはやめませんでした。

気付けばいいように使われては切り捨てられ…を繰り返しすぎて友達が1人もいなくなっていました。仮にも自分なりの生き方の根底にある芯のようなものを否定したくは ないのですが、もうこれ以上どうすればいいのか、どうすれば良かったのか全くわかりません。自分はこれから、どうすればいいのでしょうか…。


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お坊さんからの回答 3件

回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。

菩薩と仏の違い

ある老師に「菩薩と仏の違いは何でしょうか?」と聞いたら、
「菩薩は人を救わなきゃいけないと思っている。仏は、人を救わなきゃいかんという事もなく救える。その違いだ。」とのお答えを頂きました。
あなたは菩薩の行としては尊いのですが、人を救わなきゃ、人に親切にしなきゃ、ということに縛られているのです。
ボランティア精神にも様々あります。
やらなきゃいけない、絶対にやらなきゃいけない、という押しつけがましい義務的ボランティアでは、ボランティアしてもらう側も暑苦しいというものです。
自分で作った自分ルールによって縛られ、それによって不幸になるという事であれば、そのルールこそ捨てるべきものです。
しかしあなたは、それを捨てがたい、のです。自己否定につながると錯覚しているのです。
そんな事はありません。そのルールだけ捨ててしまえばあなたは瞬時にリニューアルされます。
 

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有り難し
おきもち

お悩み相談08020659278
今月の法話 文殊の剣 ❝己がそのものを観ていながらそこに余計な色や思いをつけたさぬその己の様子を「こそ」見届けてみてください。❞(本文より) 「大丈夫、慧の剣を取る。」 大いなる菩薩や老師は智慧の剣を取って、人の迷いの見解を断ち切り真実の姿をみせてくださいます。 智慧の剣とは人間の自我、我見の無いこころからなる、無垢で清らかなる「事実の様子」「本来の様相」を見極める力ともいえましょう。 それこそが智慧の剣なのです。 文殊とは自己を鎮め得た者の姿。 人間の内なる思慮分別の猛獣を修め得て、その上に鎮座する姿。 事実を事実のとおりに見るということは、余分なものがないということです。 そこに現れる余分な見解というものを断ち切った姿。 そもそも、もともと一切の事象、事実というものには余分なものはありません。 とは言えども、それでも人は人の習癖・習慣的に物事に思いをつけたす。 いまや「写真で一言」という要らぬ添え物をするバラエティ文化もあるぐらいですから、ものを本当にそのままに受け取るということをしない。 文殊様の持つ剣、智慧の剣というものは、そういう人間の考えを断ち切る働きを象徴したものです。 その文殊の剣とはなにか? お見せしましょう。 いま、そこで、みているもの、きこえていること。 たとえ文字文言を観るにしても、そのものとして映し出されているという姿がありましょう。 文字として見えているだけで意味を持たせてもいない、読み取ってもいないままの、ただの文字の羅列のような景色としてみている時には、文字であっても意味が生じません。 本当にみるということはそこに安住しています。他方に向かわない。蛇足ごとが起こらない。 見届けるという言葉の方が適しているかもしれませんね。 ❝己がそのものを観ていながらそこに余計な色や思いをつけたさぬその己の様子を「こそ」見届けてみてください。❞それはものの方を見るというよりはそれを見ている己を見つめる姿ともいえましょう。 そういうご自身のハタラキ・功徳に気づく眼を持つことです。 あなたの手にはすでに文殊の剣がありますよ。用いることがないのはもったいないことですね。

尊いと感じます。でもタイミングが。

きょうび、生き馬の目を抜くような世の中で、「自分から進んで親切にする」のは尊いことと思いますが、同時に「都合のいいやつ」=使いやすい奴、にされてしまうことは、確かにあると思います。寂しいことです。
ただ、「他人のためならず」というのは、「見返りを求める気持ち」に対して、取り敢えず今、解答を得ておくという「その場しのぎ」なのかも知れません。
そう言われると、お先真っ暗な感じがするかも知れませんが、私から見るに、実は「他人のためならず」を使うタイミングを誤っているように見えます。つまり。
自分がする時に「他人のためならずだから」ではなく、何か返ってきた時に、「ああ、ただ他人のためになったダケではなかったのだ」と気づく、そのタイミングの問題ではないかと思うのです。
あなたはおそらく、既に「困っている他人がいたら助ける」ということが身体に定着していると思います。ですから「ふと」手を出してあげたい時にすれば、それで良いのです。
ちょっと分からないのは、通常「親切な人」というのは、より頼られるようになるので、友達が減るとは考えにくいのです。メカニズムがあるとすれば、「断らない、賛成する、都合を合わせる」ことであなたが得てきたメリットは何かということです。(通常、メリットの副作用には、あまり目を向けないものです)
時々親が言いますね、「子どもの言うことは、何でも叶えてあげたい」と。でもこれ、失敗の道なのです。何でも子どもの言う通りではなく、時に「これ以上は駄目だよ」という、限度や壁を示すのも、親の役目です。「何でも」の親は、「子どもの意思と親の思いをすり合わせる・折り合う努力、否定したことへの後始末」をパスしてしまっているのです。すると子どもはエスカレートし、折り合いに慣れていない双方は「キレて、断絶」に向かいます。「友達がいなくなった」というのは、そういう経路をたどる事があり得るかな?と思います。
何れにせよ、「生きていく上での信念」は、どんどんアップデートしていって良いのです。バージョンアップの時は、基本的に「当然と思っていた事を疑う」のが含まれます。いま問題に直面しているという事は、あなたの成長の時が近い証だと思います。
「ふと」でない時には、交渉というか納得が必要なのだろうと思います。

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有り難し
おきもち

一般大学(一般的でもないが…)から大正大学の史学コースへ。そののちお寺。坊さんに限らず、二足のわらじを履くことで、話に幅が出るはずだと考えて、はき続けています。子育てとか家族論とか考えつつ、でも仏教って個人のものだなぁと感じたりします。

どこかで見返りを期待している自分がいる

人のため人のためと言いながら、こうしたらお礼を言われる。とか利用されたくないとか、そうしたあなたの計らいが頭の中に存在してませんか。

そうした思いが、自分を苦しめます。自分の事のように当たり前に人にできないのであれば、進んでやる事をやめればいいと思います。自分を学んでください。自分がどのようになっているのか、それを知る事が大切です。
仏道を学び、当たり前に人のためにできる慈悲の心を持てると良いですね。

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有り難し
おきもち

個別相談可能
禅宗 曹洞宗 僧侶。神奈川県西部円通寺住職。小学校教師。 悩みを吐き出す事で、ちょっと楽になれます。悩みの根本に気づき、明るく爽やかに生きていきたいですよね。 私自身、禅との出会いにより救われた一人です。皆様に少しでもお伝え出来たらと思います。 人は自分の都合を立てて物事に向き合うところがあります。私の回答も期待していたものと違うことがあるかもしれません。その時に素直に聞けるか、回答の内容を否定的に聞くかで救われるかどうかが変わります。疑問は出てくると思います。その時はご相談ください。
ご相談時間は不定期なので、いくつかご都合を教えてください。 ◆小学校教員もしています。子供、家族、ご自身のことお話をお聞きします。 ◆禅のおかげで私も救われました。禅の教えを基に「思い通りにしたい」という自分の都合や価値観から生まれた思い込みをほぐしていくお手伝いをします。 ◆仏教は人生を豊かにしてくれることを感じてくだされば嬉しく思います。

温かい気持ちになるお坊さん説法まとめ