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死ぬ事、病の事

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有り難し有り難し 10

母が癌でなくなってから、自分の体調が少しでも悪いと、ネットで調べては悪い病気ではないか、と怯えています。

死ぬのも怖くなり、20代で情けないのですが。

そんな性格が嫌で、病気になっても戦えるような性格になりたいのですが、強く、同様しない人になるためにはどうすればよいのでしょうか?

自分がこんなに弱いとは思っていませんでした。


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お坊さんからの回答 1件

回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。

まだ死んでない

死ぬことを考えて、この身が死んでもいないのにかかわらず、死の事で恐怖する、心がぐらつくのは、死に対するセカンド・イメージで苦しんでいるだけじゃい。
それは死を恐れているのではない。
死に対して、自分が思い起こした2ndイメージでやられているのですよ。
閲覧注意な画像を見て、その直後思いを起こして、自分の思いで苦しむようなものです。
あなたはまだ死んでない。
死んでいないという確かな真実に目を向けなさい。
「死と太陽は見つめてはならぬ」といいますが、「厳密には死と太陽と、死に対する自分のイメージには目を向けてはならぬ」なのです。
いくら死ぬことを考えたって、死ぬ0.00000001秒前までは生きてますから。全然OKッス。自分の思いに騙されなくなる生き方。
それが仏道修行です。思考と事実の違いを明確にして、思考にやられなくなることです。
本当に自分の思考から抜け出したくなったら遠かろうが、当山の坐禅会にお越しください。

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有り難し
おきもち

お悩み相談08020659278
今月の法話 文殊の剣 ❝己がそのものを観ていながらそこに余計な色や思いをつけたさぬその己の様子を「こそ」見届けてみてください。❞(本文より) 「大丈夫、慧の剣を取る。」 大いなる菩薩や老師は智慧の剣を取って、人の迷いの見解を断ち切り真実の姿をみせてくださいます。 智慧の剣とは人間の自我、我見の無いこころからなる、無垢で清らかなる「事実の様子」「本来の様相」を見極める力ともいえましょう。 それこそが智慧の剣なのです。 文殊とは自己を鎮め得た者の姿。 人間の内なる思慮分別の猛獣を修め得て、その上に鎮座する姿。 事実を事実のとおりに見るということは、余分なものがないということです。 そこに現れる余分な見解というものを断ち切った姿。 そもそも、もともと一切の事象、事実というものには余分なものはありません。 とは言えども、それでも人は人の習癖・習慣的に物事に思いをつけたす。 いまや「写真で一言」という要らぬ添え物をするバラエティ文化もあるぐらいですから、ものを本当にそのままに受け取るということをしない。 文殊様の持つ剣、智慧の剣というものは、そういう人間の考えを断ち切る働きを象徴したものです。 その文殊の剣とはなにか? お見せしましょう。 いま、そこで、みているもの、きこえていること。 たとえ文字文言を観るにしても、そのものとして映し出されているという姿がありましょう。 文字として見えているだけで意味を持たせてもいない、読み取ってもいないままの、ただの文字の羅列のような景色としてみている時には、文字であっても意味が生じません。 本当にみるということはそこに安住しています。他方に向かわない。蛇足ごとが起こらない。 見届けるという言葉の方が適しているかもしれませんね。 ❝己がそのものを観ていながらそこに余計な色や思いをつけたさぬその己の様子を「こそ」見届けてみてください。❞それはものの方を見るというよりはそれを見ている己を見つめる姿ともいえましょう。 そういうご自身のハタラキ・功徳に気づく眼を持つことです。 あなたの手にはすでに文殊の剣がありますよ。用いることがないのはもったいないことですね。

質問者からのお礼

ご返答ありがとうございます。

母の闘病を見て、死というものを理解したつもりで理解できていなかったのかもしれません。

苦しんでいく死に様に恐怖だけでなく他のものを今からでも見つけてあげられたらと考えました。

死や病への恐怖は消え去りませんが、座禅というものを通して克服し、自分の感情をコントロールしたいです。

座禅会に参加したいともおもいますが、まず家でできる座禅の心構えや姿勢を教えていただけませんか?

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