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病んでる人

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最近思ったことがあります 前に質問した時に地獄はあるかというした時に 精神状態で決まるて聞いた時思ったことがあります
病んでる人は地獄に行ってしまうんではないか
と思った時もありました それはどうなんでしょ? ケアすると大丈夫なのでしょうか?


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お坊さんからの回答 2件

回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。

心外に地獄・極楽を求めるべからず。

地獄というのは心で思い描いている世界ではないでしょうか。
心が今、どこか外の世界に地獄らしいものを思い描いていませんか。
そして、その思い自体に不安になったり、恐怖心が出ているでしょう。
みな、全部自分の心が作り出していることを知るとよいでしょう。
ケアする云々ではなく、物事を正しく見るということをお勧めします。
迷い、不安、恐怖、ネガティブな思いの外に地獄は無いんじゃないでしょうか。

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お悩み相談08020659278
今月の法話 文殊の剣 ❝己がそのものを観ていながらそこに余計な色や思いをつけたさぬその己の様子を「こそ」見届けてみてください。❞(本文より) 「大丈夫、慧の剣を取る。」 大いなる菩薩や老師は智慧の剣を取って、人の迷いの見解を断ち切り真実の姿をみせてくださいます。 智慧の剣とは人間の自我、我見の無いこころからなる、無垢で清らかなる「事実の様子」「本来の様相」を見極める力ともいえましょう。 それこそが智慧の剣なのです。 文殊とは自己を鎮め得た者の姿。 人間の内なる思慮分別の猛獣を修め得て、その上に鎮座する姿。 事実を事実のとおりに見るということは、余分なものがないということです。 そこに現れる余分な見解というものを断ち切った姿。 そもそも、もともと一切の事象、事実というものには余分なものはありません。 とは言えども、それでも人は人の習癖・習慣的に物事に思いをつけたす。 いまや「写真で一言」という要らぬ添え物をするバラエティ文化もあるぐらいですから、ものを本当にそのままに受け取るということをしない。 文殊様の持つ剣、智慧の剣というものは、そういう人間の考えを断ち切る働きを象徴したものです。 その文殊の剣とはなにか? お見せしましょう。 いま、そこで、みているもの、きこえていること。 たとえ文字文言を観るにしても、そのものとして映し出されているという姿がありましょう。 文字として見えているだけで意味を持たせてもいない、読み取ってもいないままの、ただの文字の羅列のような景色としてみている時には、文字であっても意味が生じません。 本当にみるということはそこに安住しています。他方に向かわない。蛇足ごとが起こらない。 見届けるという言葉の方が適しているかもしれませんね。 ❝己がそのものを観ていながらそこに余計な色や思いをつけたさぬその己の様子を「こそ」見届けてみてください。❞それはものの方を見るというよりはそれを見ている己を見つめる姿ともいえましょう。 そういうご自身のハタラキ・功徳に気づく眼を持つことです。 あなたの手にはすでに文殊の剣がありますよ。用いることがないのはもったいないことですね。

病んでいても望まなければ地獄には行きません

前回のご質問に私からお答えさせていただければ、その時のお気持ちが苦しみに満ちあふれていればその時のお気持ちは地獄にいると同じだという事です。病んでいるということがお身体なのか、心なのか?心が病んでいるということが鬱的なものなのか、それても人を殺すのが楽しくて仕方ないというような犯罪的な心理状態をいわれているのかわかりませんが。お身体の病気であれば身体の病気は苦しみでしかなくても、心は健康でいることは可能でも有るかと思います(難しいかもしれませんが仏さまは病気のままでその苦しみを苦しみでなくしてくださいます)。鬱的な心の病気でも仏さまのお教えに触れ信仰を深めていくことにより苦しみは和らいでいくことは出来ると思います。そして死後の世界であればその方が救われることを望まれるなら地獄に仮に堕ちたとしても救われる道はございます。

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おきもち

長くサラリーマンをしていて、16年前先代の跡を継ぎました。住職となって改めて仏教の勉強不足を実感しています、未熟者です。 hasunohaは私にとって修行の場です。

質問者からのお礼

ありがとうございました

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