宗教では人は救われないのではないか?
僕は信仰する事は好きですし救われる事もあると思います。
しかし世界的に見たら宗教の違いで戦争が起きています。しかも仏教ですらミャンマーでのロヒンギャの虐殺が起きています。
本当に信仰で他人は救われるのですか?
回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。
自分が自分を救う
たつや様
川口英俊でございます。問いへの拙生のお答えでございます。
宗教においては、独善的、排他的、自己満足的な要素が出てしまうと、やはり弊害があると考えております。
信仰も、ただ妄信的、盲目的、狂信的であってもいけないものとなります。批判的、合理的に検証しつつに、納得して修習して参りたいものとなります。
信仰により救われるのではなく、最終的には、自分が自分を救うものであるとして、仏教においては、仏法を頼りとして、しっかりと己の行いを調えて参りたいものでございます。
川口英俊 合掌
私の嫌いな人も幸せになりますように。拝
私のお寺の本堂には、一年中「Merry X'mas」と書いたポスターを掲げてあります。しかし、その続きに、「私は善き仏教徒も 善きキリスト教徒も ともに尊重します 住職」と但書を付け加えています。
仏教徒は【縁起】と【空】の理論から【慈悲】の心を育てる。
キリスト教徒は、神のミッションを従順に遂行することで【博愛】の心を育てる。
イスラム教はよく知りませんが、私の知っているエジプト出身のイスラム教徒の人は、誰よりも温厚で優しいお人柄でした。一部のイスラム教の過激派組織が酷い事をしまくって世界が戦慄していた頃、その友人に巡り会えたことで、きっとホンモノのイスラム教はとても素敵な教えなんだろうなと心からそう思い、尊敬に値すると思ってきました。
呼び名は「神」でも「仏」でもなんでもいいサ。
自分の中に【善意】と【良心】を呼び起こし、【思いやり】の意志と行動を引き出すものであれば、ある意味何でもいいかなーと私は考えています。
自分の「信仰」という名の主義主張を正義とし、神や仏、大昔の高僧方の名前を盾に、自分たちとは異なるものを悪として斬りつければ、そらぁ抵抗に遭いますよね。
でも、きっとそれは本当の意味の信仰ではないだろうし、そういう意味では、昨今、ホンモノの神仏が不在のエセ宗教が世界中にはびこってしまっているのかもしれませんね。
じつに悲しいことです。
仏教的には信仰とは、仏様と、その教えと、その教えに従って生きる人を敬うこと。
仏様であるお釈迦様はカースト制度という身分差別に反対していました。
人の価値は生まれや血統ではなく、何をしたかによって決まる、と説きました。
つまり宗教や人種などで差別してはならないという事もお釈迦様の大切な教えなのです。
その教えをミャンマーの人達、そして、私達もよくよく考えないといけないのだろうと思います。
そして、私達に出来る事は、私達自身が差別しないように生きることなのだと思います。
質問者からのお礼
回答ありがとうございます。信仰も正しく行わないといけないのですね。宗教の名の元、過激な思想は危険ですよね。