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肩の力の抜き方。

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有り難し有り難し 14

お世話になります。
タイトルのことを相談させていただきたいです。

 私は現在昔患った精神的疾患(大まかに言えば鬱のようなもの)をぶり返してしまい仕事も休み休みどうにか続けている状態です。
 周りの人からは疲れているなど言われますが私自身大きな疲れを感じていると言うことはなく普段通りに生活しているつもりでした。
 しかし、習い事や趣味の面においても「頑張りすぎている」と言われることが多くもっと肩の力抜いたら楽でもっと化けるかもしれないと言われました。

そこで考えてみたのですが自分が「肩の力の抜き方」というものがわかりません。

0か100の状態が常のためその状態を見いだせません。
この肩の力を抜いて生きるというのにはどうしたらいいでしょうか?
何かアドバイスを頂ければと思い相談させていただきました。

お手数をおかけしますがご回答いただければ幸いです。
よろしくお願いいたします。


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お坊さんからの回答 1件

回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。

0か100を自分がやらなければいい

もしウツが回復したり、良くなっていけば、それを自分のものだけにしないということを前提に読んでください。ところが多くの方々は報謝がありません。
自分が治れば「それっきり」です。
そういうケチな人間にはならない、その救いの力を多くの人に広めたいという心「菩提心」を持つことをお約束していただければ、その利他の精神ややさしさの心によって鬱も快方に向かい治りましょう。
これは実は大事な条件です。
たとえばお医者様にかかって治していただいた後も自分を改めない人、薬が治したんだ、どのみち治るべくして治った、という謙虚な気持ちや感謝が無い人や、治していただいたその先生の徳を敬わない人は【現代的なバチ】めいたものが当たります。
それをさせるのはエゴです。自分を中心とする心の汚れです。
私は坐禅会を開いておりますが、鬱の方もお見えになります。
私の恩師の井上貫道老師の教えを広めてお伝えしております。
鬱が良くなる方法もお伝えして快方に向かわれた方もおられます。
私のものは何もありません。
治っていく人たちの様子や老師の坐禅会に来られる人たちを見ていて思うことがあります。
「自分のことを優先する人間は✖✖…」(ご想像に任せます)
たとえ話ですが、せっかくマインドフルネス瞑想がいい形で広まろうとしていても、マインドフルネスで利権や自分の何かに役立てようとすると、マインドフルネスの神様は遠くに行ってしまうのです。
病を治すうえでの最も大事な姿勢は「その後の治り方、治らていくその向かわせ方」です。
仏教を学ぶ人でもケチな人は仏教を学んでも身を滅ぼします。そういうグループがSNSにあるでしょう。
自分の体のことはホントウは自分がやっていないものです。呼吸も内臓もモノが見えることも聞こえることも味がすることも何かを感じることも思いが起こてくることも。
全部自分がやっていると思う人は苦しみが消えません。
肩の力を抜こうとして自分が肩の力を抜こうとすれば自分の力がそこに加わる。
当然、本当に力の抜けた大脱力・大脱落の人ではありません。
ここに具体的な方法は書いてありませんが、あなたはこれを読めば「わかる」ようになっています。それが肩の力の抜き方です。
そのように、主体的な・自分流な・自分が正しいと思って・やることをしなければあとはおのずから「感じ取れる」はずです。
どうか、謙虚な心や感謝の心を大切に。

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有り難し
おきもち

お悩み相談08020659278
今月の法話 文殊の剣 ❝己がそのものを観ていながらそこに余計な色や思いをつけたさぬその己の様子を「こそ」見届けてみてください。❞(本文より) 「大丈夫、慧の剣を取る。」 大いなる菩薩や老師は智慧の剣を取って、人の迷いの見解を断ち切り真実の姿をみせてくださいます。 智慧の剣とは人間の自我、我見の無いこころからなる、無垢で清らかなる「事実の様子」「本来の様相」を見極める力ともいえましょう。 それこそが智慧の剣なのです。 文殊とは自己を鎮め得た者の姿。 人間の内なる思慮分別の猛獣を修め得て、その上に鎮座する姿。 事実を事実のとおりに見るということは、余分なものがないということです。 そこに現れる余分な見解というものを断ち切った姿。 そもそも、もともと一切の事象、事実というものには余分なものはありません。 とは言えども、それでも人は人の習癖・習慣的に物事に思いをつけたす。 いまや「写真で一言」という要らぬ添え物をするバラエティ文化もあるぐらいですから、ものを本当にそのままに受け取るということをしない。 文殊様の持つ剣、智慧の剣というものは、そういう人間の考えを断ち切る働きを象徴したものです。 その文殊の剣とはなにか? お見せしましょう。 いま、そこで、みているもの、きこえていること。 たとえ文字文言を観るにしても、そのものとして映し出されているという姿がありましょう。 文字として見えているだけで意味を持たせてもいない、読み取ってもいないままの、ただの文字の羅列のような景色としてみている時には、文字であっても意味が生じません。 本当にみるということはそこに安住しています。他方に向かわない。蛇足ごとが起こらない。 見届けるという言葉の方が適しているかもしれませんね。 ❝己がそのものを観ていながらそこに余計な色や思いをつけたさぬその己の様子を「こそ」見届けてみてください。❞それはものの方を見るというよりはそれを見ている己を見つめる姿ともいえましょう。 そういうご自身のハタラキ・功徳に気づく眼を持つことです。 あなたの手にはすでに文殊の剣がありますよ。用いることがないのはもったいないことですね。

質問者からのお礼

ご回答ありがとうございます。
頭の中をもう少し整理して自然とその上遺体に慣れるように慣れたらと思います。

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