自分の人生が受け入れられません
最近、友人や親戚を羨ましく思う気持ちが強くなりすぎて辛いです。
幼い頃に母が出ていったので父と祖父母に育ててもらいました。祖父は気に入らないことがあるとすぐに手が出る人で些細な事で毎日殴られていました。父と祖母は優しい人でしたが苦しさは理解してもらえませんでした。
中学生になるころには躁鬱病を発症しました。
最近は一年の間に父と祖父が亡くなり祖母は介護施設にいます。仕事は体調が良くないためパートです。
将来が不安できりきりと不満が多くなってしまいます。
家族も健在で正社員の友人が多くその友人たちは優しく朗らかです。
恵まれた友人たちと自分を比べて落ち込むことが本当に辛いです。穏やかに楽になりたいです。
回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
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比べることをやめるのでなく、比べている自分に気づく
病気を抱えながらの身内の立て続けの葬儀。耐えがたい心労だったことと思います。おばあ様のことも何かと気がかりでしょう。これまでよく頑張りましたね。
優しいご友人に囲まれながらも、比較し落ち込んでしまうのですね。
この「比べる」という行為をやめることはなかなか難しいと思います。人間が物事を認識する上での基本構造だからです。
「私」を認識するにあたり、母と比べ父と比べ「私」を自覚し、自我が芽生える。いつしか私というものは誰か、何かを抜きにして成立しません。
職場での私、友人の前の私、孤独の前の私、悩みの前の私…
いつも誰か、何かと比べ、相対化して物事を認識します。そこに価値観が生まれます。こっちの方がいい・悪いという様に。
その基本構造を抜け出すことが無理ならば、それが基本構造であることをよく知ることです。
「また私は比べて苦しんでいたなあ」
と自覚することです。
あなたの苦しみは誰かと比べてそれが大きいから苦しいのではありません。あなたが苦しいから苦しいのです。
あなたの喜びは誰かと比べそれが大きいから喜ばしいのではありません。あなたの喜びはあなたの喜びです。
その大小は本来関係ないのです。
ご友人と比べて落ち込んでしまうから自分を受け入れられないのではないのだと思います。
自分を受け入れられないからご友人と比べて生じる思いをまともに受けて落ち込んでしまうのではないでしょうか。
人は受け入れる受け入れないを問わず自分が自分であることには変わりません。そしてその自分が受ける縁の大部分は人生からの強制贈与です。
あなたはあなたの母を選べたでしょうか。祖父を選べたでしょうか。病気になるかならないかを選べたでしょうか。
そこに自分が選んだという、よく言えば責任、悪く言えば傲慢な態度があるのならば「何で私はこんなことに」という自己否定も生まれることでしょう。
しかし現実はその受け入れがたいものも含めて自分であり、自分の人生です。選んだというより、いただいてしまったご縁なのです。
その縁の違いを嘆きたくなる気持ちはもっともです。それでも人はいただいた縁を受け入れられない限り人生が虚しいものになってしまいます。
あなたを彩る縁を受け入れて人生に対し主体性を持てた時、人と比べるまでもなくあなた自身への存在の満足がそこに生まれるのではないでしょうか。