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いつまで続くのだろう、涙がとまらない。

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こんにちは。小さい頃から、貧乏な家庭に生まれ、父親は私が7歳のとき事故のために働けず、母親が唯一の働き手なので、家のことは私がしてきました。      

生活保護期間もながく、給食費も払えないので、私も親と同じ所で中学生からアルバイトして。高校もいかせられないと言われ、奨学金を借りて頑張りました。           

卒業してからも働いて実家に毎月10万円を送り、足らないと言われれば送りました。アルバイトしたお金もバイト先まで取りに来るような親です。
逃げたかった、でもきょうだいが同じ道を進むのはかわいそうだから、私が我慢すればいいと思ってたんです。

今でも悩まされます、ところが、結婚したらしたで違う問題が。結婚相手の親もいい加減な人で、詳しく説明すると沢山ありすぎる。

私が穏やかに過ごしたいのですが、次から次へと問題が起こり、特に金銭面で疲れはてました。逃げてしまいたい、死んでしまいたい。
だけど、子供がいるからたえるしかない。
前向きに一歩一歩
私に幸せはいつおとずれるのでしょうか。


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お坊さんからの回答 2件

回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。

本当は続いてはいない そこで始まりそこで完結していると知る

まずは年末ジャンボ、BIGを買い、夢を買いましょう。
売上場でちょい小太りのツルツル頭がいたら私でしょう。気づいたら声をかけてください。
共同出資で当たったら山分けしましょう。というのは半分冗談で、
仏教の悟り目線を持ちましょう。
その時っきり、その場っきり、その事っきり。
そこでその出来事は終わらて、思いにとどまらない様にしましょう。
それはそれ。それはそこまで。
どんな不幸も今日から一秒っきりで、そこで終わらせてみましょう。
引きずらない思考と言ってもいいでしょう。
ですが、厳密には思考ではなく、実際の事実に目を向けるという事です。
私も人生の中で沢山の不運&フコーを乗り越えてきました。100コの不幸があったとします。
ですが、それらは厳密には続いている訳ではないのです。
その都度、その都度の、不運、不運、ド不運なのです。毎回新鮮。
しかもさらには、その不運に対して、悪く思う事が不幸になるのです。
不運が不幸になってより不幸度が増すのは、自分自身がさらに追い打ちをかけるのです。
「不運に見舞われても不幸にはなるな」と言われますように、事実で不運があっても、心の中で不幸にしない。問題視、問題化、不幸化、不幸ナイズさせないのです。
私も、ある時不運、不運、不幸だ、不幸だと思ってきたそれらは、自分の被害者意識がさらに追い打ちをかけていた事をホトケのお導きによって悟りました。
泣きっ面にハチ。
➀泣きっ面に②ハチだけで、済めば2つの不運で済むのです。
そこに③「ああ、もう嫌だ」④「辛い」⑤「何で自分だけこんな目に」などと思えば思う程、三次災害、四次災害、五次災害になるのです。
そこに「自分」を入れないで見てください。
その出来事は❝あなたのもの化❞させないで眺めてください。
私もビンボーですが、お金が無くても幸せにはなれるものです。
一句浮かびましたわ。
ビンボーもビンボー忘れたビンボーはビンボーながらにビンボーで無し。
それでは宝くじ売り場でお待ちしております。( ˘ω˘ )

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おきもち

お悩み相談08020659278
今月の法話 文殊の剣 ❝己がそのものを観ていながらそこに余計な色や思いをつけたさぬその己の様子を「こそ」見届けてみてください。❞(本文より) 「大丈夫、慧の剣を取る。」 大いなる菩薩や老師は智慧の剣を取って、人の迷いの見解を断ち切り真実の姿をみせてくださいます。 智慧の剣とは人間の自我、我見の無いこころからなる、無垢で清らかなる「事実の様子」「本来の様相」を見極める力ともいえましょう。 それこそが智慧の剣なのです。 文殊とは自己を鎮め得た者の姿。 人間の内なる思慮分別の猛獣を修め得て、その上に鎮座する姿。 事実を事実のとおりに見るということは、余分なものがないということです。 そこに現れる余分な見解というものを断ち切った姿。 そもそも、もともと一切の事象、事実というものには余分なものはありません。 とは言えども、それでも人は人の習癖・習慣的に物事に思いをつけたす。 いまや「写真で一言」という要らぬ添え物をするバラエティ文化もあるぐらいですから、ものを本当にそのままに受け取るということをしない。 文殊様の持つ剣、智慧の剣というものは、そういう人間の考えを断ち切る働きを象徴したものです。 その文殊の剣とはなにか? お見せしましょう。 いま、そこで、みているもの、きこえていること。 たとえ文字文言を観るにしても、そのものとして映し出されているという姿がありましょう。 文字として見えているだけで意味を持たせてもいない、読み取ってもいないままの、ただの文字の羅列のような景色としてみている時には、文字であっても意味が生じません。 本当にみるということはそこに安住しています。他方に向かわない。蛇足ごとが起こらない。 見届けるという言葉の方が適しているかもしれませんね。 ❝己がそのものを観ていながらそこに余計な色や思いをつけたさぬその己の様子を「こそ」見届けてみてください。❞それはものの方を見るというよりはそれを見ている己を見つめる姿ともいえましょう。 そういうご自身のハタラキ・功徳に気づく眼を持つことです。 あなたの手にはすでに文殊の剣がありますよ。用いることがないのはもったいないことですね。

平和な日本にいるだけでも幸せかも

「幸せ」とは、人それぞれ、その時々に感じることができるものではないでしょうか。
衣食住がまかなえて、突然銃で撃たれたりしない平和な日本に暮らせることは、世界の中では恵まれている。
コンビニで買えるようなデザートも、昔なら王様でも食べられなかったようなご馳走です。

心は無常、一瞬一瞬に変化しています。
1日の中でも、悲しんでいない時間はけっこうあるはず。
悲しんでいないとき、幸せは訪れている。
あなたが見落としているだけかもしれません。

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がんよじょうし。浄土宗教師。「○誉」は浄土宗の戒名に特有の「誉号」です。四十代男。 仏教は、悩み苦しみを制御したり消したりするための教えです。まだまだ未熟者の凡夫ですがよろしくお願いします。

温かい気持ちになるお坊さん説法まとめ