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義両親に怖くて会えません

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義両親が経営していた宿泊施設を私がつぶしてしまいました。

義両親は高齢で、主人と三人で経営してましたが、体がきかなくなり閉めようかと言っていた矢先に私が嫁に来たので嬉しかったようです。

20人が食べて泊まれる施設を夫婦二人だけでやっていました。
子供が生まれて、どうしても手が回らなくなりましたが他の人を雇うお金はありませんでした。貯金もなく、経営は赤字ギリギリです。

なので申し訳なくて仕方なかったんですが遠い実家から両親を呼び寄せたり、子供を両親に長期間預けたりしてむりやりまわしていました。
子供になんということをしてるんだろうとおもいつつ、お客様の期待だけは裏切らないように懸命でした。

経営の不安と、プレッシャーと、育児と責任感に疲弊し、数年で過労とうつ病になりました。
事情がありまして、この仕事を休むということは辞めるということに等しく、宿泊施設も手放さなければならないということだったので、私は辞めない!と頑張りましたが、半年以上続く熱と頭痛にとうとう音を上げてしまいました。もう育児も何もできない、私の限界だと。

義両親には
甘やかされて育っとんだろ。さっさと死ねばええ
と言われました。

ショックでしたが、義両親がそう言ったほど大切なものを壊してしまったのだとおもいました。自分を責め、罪悪感を感じ続けています。

それから二年近く経ちますが、義両親には会っておりません。どの面下げてといいますが、まさにそうです。何を言えばいいのか。どんな顔をして。。。

主人も口にはしませんが、潰したのは私だと思っていますし、友人から甘ったれた嫁だと言われた、と自嘲気味に私に話したこともあります。
実の両親だけ、お前そりゃあ頑張りすぎたんだわ、と言ってくれましたが、これが甘やかされて育った証拠なのでしょうか。

医者にかかり、うつはかなり良くなりました。就職し働いてもおります。ですがまだ思い出すと申し訳なくて不眠になったり泣いたりします。

義両親は近くに住んでおり、顔を合わさねばならないときもままあると思いますが、その時私はどのような心でおればよろしいでしょうか。強い心を持ってするにはどうしたら良いのでしょうか。


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お坊さんからの回答 1件

回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。

行動で誠意を示す

私も昔、調理場で200人前のおかゆを焦がしてしまったことがあります。
火が強すぎたのでしょう。
調理には調理の道理があります。
経営にも経営の道理があります。
旅館の経営の神様的な人がいるでしょうから、学ばれてはいかがでしょうか。
旅館が駄目になったのであれば、そこを活用してなんとか再生する方法を考えてはいかがでしょうか。
富士フィルムでさえ、ダイエットサプリを販売しています。
転んだら、頭を打たないように手をつくことです。
転んでけがをしたら傷を治療しましょう。
服が破れたら補修しましょう。
雨が降ってきたら傘を差しましょう。
苦しいことがあったら対処しましょう。
こまったらhasunohaに相談しましょう。
相談するだけじゃなくて行動しましょう。
行動したら成果を出しましょう。
成果が出なければやり方を変えましょう。
心が凹んだらその凹む心を改めましょう。
凹む心を改めるには、心を知りましょう。
心が何に凹んでいるのかを知るには、自分の思いの反応を見つめましょう。
自分の思いを見つめていれば、自分が義理の両親ではなく自分の思いにビビっていることに気づけるはずです。
思うより、行動を。
良いお年を。

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有り難し
おきもち

お悩み相談08020659278
今月の法話 文殊の剣 ❝己がそのものを観ていながらそこに余計な色や思いをつけたさぬその己の様子を「こそ」見届けてみてください。❞(本文より) 「大丈夫、慧の剣を取る。」 大いなる菩薩や老師は智慧の剣を取って、人の迷いの見解を断ち切り真実の姿をみせてくださいます。 智慧の剣とは人間の自我、我見の無いこころからなる、無垢で清らかなる「事実の様子」「本来の様相」を見極める力ともいえましょう。 それこそが智慧の剣なのです。 文殊とは自己を鎮め得た者の姿。 人間の内なる思慮分別の猛獣を修め得て、その上に鎮座する姿。 事実を事実のとおりに見るということは、余分なものがないということです。 そこに現れる余分な見解というものを断ち切った姿。 そもそも、もともと一切の事象、事実というものには余分なものはありません。 とは言えども、それでも人は人の習癖・習慣的に物事に思いをつけたす。 いまや「写真で一言」という要らぬ添え物をするバラエティ文化もあるぐらいですから、ものを本当にそのままに受け取るということをしない。 文殊様の持つ剣、智慧の剣というものは、そういう人間の考えを断ち切る働きを象徴したものです。 その文殊の剣とはなにか? お見せしましょう。 いま、そこで、みているもの、きこえていること。 たとえ文字文言を観るにしても、そのものとして映し出されているという姿がありましょう。 文字として見えているだけで意味を持たせてもいない、読み取ってもいないままの、ただの文字の羅列のような景色としてみている時には、文字であっても意味が生じません。 本当にみるということはそこに安住しています。他方に向かわない。蛇足ごとが起こらない。 見届けるという言葉の方が適しているかもしれませんね。 ❝己がそのものを観ていながらそこに余計な色や思いをつけたさぬその己の様子を「こそ」見届けてみてください。❞それはものの方を見るというよりはそれを見ている己を見つめる姿ともいえましょう。 そういうご自身のハタラキ・功徳に気づく眼を持つことです。 あなたの手にはすでに文殊の剣がありますよ。用いることがないのはもったいないことですね。

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