幸せになることと、真実を知るということ
真実を知る!ということと、幸せになれる!は必ずしも一致しないと思います。
何故なら幸せとは不幸せと裏表のような関係であり、どちらか一方のみでは成り立たないからです。毎日が幸せだとしたら、それは幸せではなく当たり前に。^_^
真実とはなにか、と言ったときに、それはあまりにも平凡で何も高尚なことはない、そのままの剥き出しのままのこと。。幸せとか不幸とかの判断もそこには介入しません。介入したとしても、それもまたよしですが。
真実を知ること=幸せになることだったら素晴らしいとは思いますが、イコールではないと私は思います。
これを綺麗すぎる言葉であたかもイコールしているかのように言ってしまうとスピリチュアルな探求へ陥ります。
(真実を知ることが愛であり究極の幸せだ、、みたいな)
そして別に衆生はそれ(真理)を求めていないと思います。
もっと、単純に、幸せになりたい。ただこれ一点かと。
そこのところ皆様はどのような視点をお持ちですか?
楽になりたいのなら沢山の手段があります。セラピーでもカウンセリングでもヒーリングでも。
思い込みを外すワークや、思考を客観視するワークなどなど。。
仏教はそういったアプローチも含んでいるように感じているのですが違いますか?
癒しと真理探求は逆のベクトルを指しているように感じたので疑問が湧きました。
どうぞよろしくお願いいたします(*^_^*)
回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。
「最高真理=涅槃到達=最高の幸せ」
有未様
川口英俊でございます。問いへの拙生のお答えでございます。
「幸せ」につきましては、これまでにも下記の各問いにて扱わせて頂いておりますが、基本的には、仏教の目指す「幸せ」と、世間世俗一般における「幸せ」とは、やはり異なるものであると考えております。
http://blog.livedoor.jp/hasunoha_kawaguchi/tag/幸せ
「・・世間の八法(利得、損失、称賛、非難、誉れ、誹謗、楽、苦)に本当の幸せを見いだすことはできない、本当の幸せ、つまり、仏教における悟り・涅槃へと至ることが、真に幸せとなるために必要であるとして、そのための道を釈尊はお説きになられた次第でございます。・・」
究極の幸せとは、何かということを、世間の幸せ、不幸せと相対して考えてしまうと、確かに答えは難しいものになってしまうかと存じます。
では、仏教の考えている究極の幸せとは何かと申しますと、「ニルヴァーナ」の状態、つまり、「涅槃」となります。
「ニルヴァーナ」の原意が、「吹き消す」、「吹き消した状態」として、「寂静」、「寂滅」と訳されることもありますが、迷い苦しみ、あるいは、煩悩、無明(根本的無知)が完全に滅した状態のことを言います。
その涅槃へと到達するためには、やはり、真実、真理を悟ることが必要条件になると考えております。
そのため、「(最高の)真実を知ること=(究極の)幸せになること」という「幸せ」は、仏教の場合、「涅槃に至ったこと」として、やはり、イコールと考えられるのではないかと存じます。
もう少し「真実、真理を悟る」ということについて説明するならば、仏教の場合、「空」を十全に悟るということになるのではないかと存じております。また、「空」の正しい理解へと向けては、「縁起」の理解も必要となります。「空と縁起」の正しい理解へと向けた智慧と共に、福徳(功徳)をも円満に集積することで、真なる幸せとなる、涅槃へと向けて、是非、共に頑張って参りましょう。
川口英俊 合掌
あなたの場合、安らぎ・幸せという言葉も捨てた方がよい。
こんにちは。(´▽`*)
上手に分類なさっておられますね。
ちょっと気になったのですが、実際のところあなた自身が斜に構えている感があるような気がします。まず、あなたの人生の主体はあなたですから、あなたが幸せであればそれでいのです。実際、ぶっちゃけ、あなた、本当に本当のところは完全に幸せじゃないでしょう。
一抹の❝オニギリ❞が感じられましゅる。
分析の方を楽しんで真に安住していない感じがします。
今の私の言葉で後でグラつくようでしたら、軌道修正をなさってください。
癒しと真理探究<救い>はもちろん違います。
いくら🐈カフェ、アイドルの追っかけ、スパ、アゲアゲ・ヨイショヨイショなカウンセリングやセラピー、仏道修行らしきもので癒されたって、翌日どうか?ってことですから。
「坐禅三年ヨガ三年スピリチュアル三年結果残念」では人生棒に振ります。
「今、アタシ、本当のところ、どうか?」
実際ぶっちゃけ、どうだろうか?その問いを持つことです。
これは他人ごとではなく、自分の上において、本当に「どうか?」なのです。
癒しは長続きしないものです。
分析知は分析知。
本当に救われがなければ、いくら幸せチェイサー、安らぎ探求化になって真理の追求しても、どうしてもそこにファミコンのグラディウスのオプションのように(その喩えワカラン)観念という影がずーっと影の如く付随してきてしまうのです。
幸せと不幸せは表裏一体と言われますが、本当の本当の幸せ、本当の本当のやすらぎというものは、対がなくなります。観念的な相対ではありません。事実的絶対です。
認識、分別に移行される前のそれとしてどっしり安住しているからです。
それは幸せで穏やかでありながらも、余計な観念オプションが影のようについて回っていないのです。
そりゃそうです。
こんばんは。いつもシンプルで良く錬られたな問いかけをいただき、刺激を受けております。
さて、「真実を知る」は、「幸せになる」と一致しない、どころか相反すると思います。なぜなら、「真実」とは「幸せ(と人々が感じること)は、手に入れきれないものである」ということだからです。「手に入れきれない」とはまどろっこしい言い方ですが、「完全に手に入れることができない」というニュアンスです。
衆生は、もっと、単純に、幸せになりたい。
ハイその通りです。しかし、彼らが信じている「幸せ」は、どこから教えられたのか?生きる本能なのか?なぜ「その状態を幸せと言う」を受け入れているのか?
而して仏教は、「世間一般のいう”幸せ”は追求しきれないよ。そのことを受け入れた先に、開けてくる世界があるよ」と言っているのだと思います。
と書いて、ふと下を見たら、すでに「お礼」がされていますね。大変失礼しました。でも消すのももったいないので(煩悩!)、ここまま書かせていただきます。失礼しました。
質問者からのお礼
川口さま
ご回答いただきましてありがとうございました。
はい!仏教が目指す幸せ(涅槃)と、一般で言う幸せ(不幸の逆)が混同してしまいました!
違う言葉を選べばよかったですね。ごめんなさい。
ご回答の内容は私も同じ意見です(^_^)
感情的な「幸福感」や「至福感」は悟りと関係がない、イコールではないということが書きたかったです^_^