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他者が精神的に醜く見えて親しみを感じないのがつらい

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有り難し有り難し 19

自分を守るために他人を攻撃する人、直接的でないにしても排除しようとするひと。
仲間を作り、みんなで他者の悪口やからかいの言葉を吐く人。
電車の入り口で張り付いて動かない人。
目の動き、反応行動、表情、あらゆるところから人の精神が見えるが見えるがほとんどすべての人があまりに醜い。
友人であった人でさえ、自分が助かるために重要なことに勤しみいらないものを排除していく心が見えてくる。
会社にいても同じです。しかもより深く関わらなければいけない。
私は比較的無害な性格なので人と対立することはほとんどないです。いじめられてるわけでもないです(少なくとも認知はしてない)
しかしより濃厚な醜さの中で嫌気が差し、シャットアウトできるものはすべてシャットアウトしているので徐々に孤立し、給料も下がり続けてます。

母親も尊敬できません。彼女は自分の欲と自分の危険について優先的に興味があります。
それを感じ取っている私と弟は今年の正月に家族が集まった際に思わず感情的になってしまいました。
父親も同じようなもんです。
年齢的には弱い母親を同情すべきかもしれませんが、そんな気持ちは生まれてくることもなく、浅はかな人に対する怒りの気持ちしか湧きません。
親しみが少しだけ持てるのは弟と母方の祖母だけです。親しみ持てる人がほぼいないため存在事態がありがたいと思っています。

6年ほどの間で脳の感覚が変化し続け、まず頭がぽーっとしているので酒が飲めなくなるということが起こり、胸がつまるような感覚、数分に一回は大きく息を吐かないと苦しくなるような状態が続いています。
本当に辛いです。もっと楽に生きたいです。
自分の感性を捨てたいです。
健康に生きたいです。


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お坊さんからの回答 1件

回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。

仏道は内道―自己の内側を正しく見る

ご相談拝読しました。本当にお辛そうですね。お見舞い申し上げます。
今のままでは生きづらさの中でもがくことになり、苦しみは増すばかりかもしれません。
苦しみの原因と対策を見極めていきましょう。

医療機関は受診していますか?「自分の感性」だけの問題だと自己判断してしまうと医療の力が必要な場合でもそれを受ける機会を逃してしまいます。一度受診してみてはいかがでしょう。

さて、

>他者が精神的に醜く見えて親しみを感じないのがつらい

とのことですが、そういうことは確かにあるでしょう。ではなぜ他者が醜く見えるのかという問題があります。他者の問題か、それこそ「自分の感性」の問題か。

仏教は内道です。苦しみの原因を自己の内に見つけ、自己を深く観察していく道です。
その他の教えを外道と言います。苦しみの原因を自己の外に見つけ、自己の外の環境を改善していけば苦しみから逃れられるという考え方です。
 前者も後者もどちらが間違いということはありませんが、前者の場合は環境が変わろうが自己の存在に満足を得られているならばどんな環境にも対応していけますが、後者の場合は環境が変わるたびに自己に合うようにその環境に対し何らかの対処をする必要があります。

仏教に興味がありましたら是非ここhasunohaで複数回質問してみてください。
その他として、とりあえず岩波文庫の「真理のことば 感興のことば」(中村元訳)をオススメしてみます。何かのヒントになるかもしれません。
その本から一部釈尊の教えを紹介します。

ダンマパダ1
ものごとは心にもとづき、心を主とし、心によってつくり出される。もしも汚れた心で話したり行ったりするならば、苦しみはその人につき従う。-車をひく(牛)の足跡に車輪がついて行くように。

ダンマパダ3
「かれは、われを罵った。かれは、われを害した。かれは、われにうち勝った。かれはわれから強奪した」という思いをいだく人には、怨みはついに息(や)むことがない。

つまりね、他人に見ている醜さを自己の内にも見ることが出来るかどうか、そこが他人を許せるかどうかのポイントではないでしょうか。
自己の姿が明らかになることによって他人を見る目が変わるのです。汚れた目で見るならば何をみても汚れたままですから。

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はじめまして。北海道の片田舎の農村のお寺で住職をしております。 人生経験も仏法聴聞も、まだまだ未熟な私ではありますが、皆様のお悩みに対し真摯に向き合い、共に悩み共に考えたいと思います。 お話しする内容は「こたえ」ではありません。仏法を聞いてもお金が儲かるわけでも、人間関係に恵まれるわけでも、病気が治るわけでも、何ものにも左右されない心の持ち様が手に入るわけでもありません。 仏法の救いとは悩みが私の思い通りに解決することでなく、どんな悩みも私の現実として引き受けて、悩みながらも生きていけることだと私はいただいております。 悩みを救う(解決する)のではなく、悩む人を救う(悩む私という存在を引き受けていける)のです。 「こたえ」ではなく、「問い」を共有することで、悩み苦しみを引き受けて生きていける一助となれれば幸いです。 【回答について】 後から読み返し、誤字脱字に気づいた際は訂正を入れます。訂正ではなく、お礼コメントへの返信のため追記する場合はタイトルに〔追記あり〕と記載します。 なお、タイトルも本文も字数制限があるため際限なく追記できないこともご承知おきを。
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