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お墓は必ず持たないといけないのでしょうか?

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お墓を買うお金がない場合、自宅にお骨を置いておいてはいけないのですか?


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お坊さんからの回答 3件

回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。

大丈夫ですよ。

拝読させて頂きました。
お墓を建てるには大変なお金がかかりますよね。今から確かに建てるには決意がいりますよね。そしてこれからもお墓を守っていくことが必要になりますからね。
その方をご供養なさるならば別にお墓を建て埋葬しなくてもご自宅で安置なさっても良いかと思います。
お気持ちの整理がつくまでご自宅でご供養なさっても良いと思いますよ。
とはいえいずれはどこかに埋蔵なさる、そしていずれは土に還ることが望ましいかと思います。
お亡くなりになられた方々は仏様の元に往き生まれてご成仏なさいます。
ですからご遺骨はもはやその人の痕跡でしかないのですからね。
少しずつ少しずつそこから離れていき気持ちを整理なさり、仏様の元に往かれた方々を真心込めてご供養なさることが望ましいかと思います。

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個別相談可能
脱サラして10年が経ちました。栃木県佐野市の一向寺に勤めています。(佐野ラーメンが有名な処です。)これからも皆様のご質問に対して誠心誠意回答させて頂きたいと存じます。まだまだ修行中の身ですので至らぬ点あろうかとは存じますが共に精進して参りましょうね。お寺にもお気軽に遊びに来てください。
ご相談は朝から午後5時まで受け付けております。 人間関係や恋愛のお悩み、自殺願望、大切な方の死に直面した苦しみなど、どんな内容でも構いません。一人で抱え込まずに、ぜひお辛いお気持ちを吐き出してください。 仏様や神様、ご先祖様は、いつもあなたを見守り、聞いてくださっています。あなたが少しでも穏やかな気持ちになれるお手伝いをさせていただきます。

お墓を持っても菩提心が無ければただの箱

お墓を持たなくても菩提心が無ければ亡き人も浮かばれないと思います。
人間はこの世に生まれて何が為にいきるか。
お墓を持つということは菩提心を立てるということです。
仏教でなくてもお墓は立てる。
なぜ仏教においてお墓を持つのかと言えば、亡き人への報恩供養の行として菩提心をおこして、この世の誰かの為に自分の持っている力をもって何かを尽くす。そういう生き方を供養しますという誓いの石塔がお墓というもので何もお骨を入れるハコではありません。現代にはこの心が無いから仏教であっても仏教心が無く、自分のことや自分の家のことしかやらないという人が多いのです。
菩提心とは、自分も他人様も今日出会う方も、どんな人でも動物でも生物でないものでもしかるべきところへ導くというお誓いです。悟りを求め、自分の人間性を向上させる。やさしさ、慈悲、慈愛の心を亡き人に対する報恩供養として故人様やお世話になった方々から頂いた光を反射させるように世に報謝するべく一隅を照らす活動をする。
この世が良くならんのは善心、慈悲心、慈愛心、菩提心を持つ人が少ないからでしょう。
それをするということこそが最高の供養となる。
私がお金が無くてお墓が立てられないのであれば、それでも私は報恩の菩提心をふるい起こして世の人を救わんと誓い、勤めるでしょう。
それをしないで自分のことばっかりやっている人間は一生自分のことしかやらないでしょう。
だからお墓を立てるということの真意は供養塔、良き心を広める源泉、仏法を広く広めて世の人の苦しみを取り除き安楽を提供しようという志をおこして、それを実践する。お墓とは菩提心の象徴です。菩提心を自ら行ずるところに供養の心があらわれます。たとえお墓があろうがなかろうが、そこに自分の全身全霊を捧げる。
自らの行為をもって供養となす。これが菩提心であり供養心であり、報恩行なのです。
故にタイトルでも記しましたが、お墓を持たずに菩提心もなければ…、あとはご自身でお考え下さい。合掌

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おきもち

お悩み相談08020659278
今月の法話 文殊の剣 ❝己がそのものを観ていながらそこに余計な色や思いをつけたさぬその己の様子を「こそ」見届けてみてください。❞(本文より) 「大丈夫、慧の剣を取る。」 大いなる菩薩や老師は智慧の剣を取って、人の迷いの見解を断ち切り真実の姿をみせてくださいます。 智慧の剣とは人間の自我、我見の無いこころからなる、無垢で清らかなる「事実の様子」「本来の様相」を見極める力ともいえましょう。 それこそが智慧の剣なのです。 文殊とは自己を鎮め得た者の姿。 人間の内なる思慮分別の猛獣を修め得て、その上に鎮座する姿。 事実を事実のとおりに見るということは、余分なものがないということです。 そこに現れる余分な見解というものを断ち切った姿。 そもそも、もともと一切の事象、事実というものには余分なものはありません。 とは言えども、それでも人は人の習癖・習慣的に物事に思いをつけたす。 いまや「写真で一言」という要らぬ添え物をするバラエティ文化もあるぐらいですから、ものを本当にそのままに受け取るということをしない。 文殊様の持つ剣、智慧の剣というものは、そういう人間の考えを断ち切る働きを象徴したものです。 その文殊の剣とはなにか? お見せしましょう。 いま、そこで、みているもの、きこえていること。 たとえ文字文言を観るにしても、そのものとして映し出されているという姿がありましょう。 文字として見えているだけで意味を持たせてもいない、読み取ってもいないままの、ただの文字の羅列のような景色としてみている時には、文字であっても意味が生じません。 本当にみるということはそこに安住しています。他方に向かわない。蛇足ごとが起こらない。 見届けるという言葉の方が適しているかもしれませんね。 ❝己がそのものを観ていながらそこに余計な色や思いをつけたさぬその己の様子を「こそ」見届けてみてください。❞それはものの方を見るというよりはそれを見ている己を見つめる姿ともいえましょう。 そういうご自身のハタラキ・功徳に気づく眼を持つことです。 あなたの手にはすでに文殊の剣がありますよ。用いることがないのはもったいないことですね。

ご自宅で供養されるのもアリです。

お墓をお持ちでも、
「自分が亡くなった時に
 一緒に埋葬してほしい」と、
ご自宅のお仏壇に納めておられる方は
少なくありません。

お仏壇が無ければ、
シンプルなもので良いのでご用意いただき、
お骨を安置されれば有難いです。

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 浄土真宗(大谷派)/広島県広島市/17世住職。  1967年京都市生まれ。山形大学理学部卒業後、証券会社で勤務。30歳で脱サラし、親戚筋の超覚寺に入寺、45歳で住職継職。  遺族の分かち合いやお悩み相談などグリーフサポート活動を続け、お寺の掲示板による法語伝道にも尽力している。カープ坊主の会会員。
こちらに法事が入っていなければ、ご希望の日時に相談させていただきます。 想いを吐き出しても、あなたの環境は変わりませんが、あなたの気持ちは変わっていきます。 どうぞ安心してお話しください。

質問者からのお礼

ご指導ありがとうございました。少し心が軽くなりました。感謝いたします。

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