先日猫のことで相談いただいたこまめと申します。
3日前、愛しい猫は他界いたしました。
朝から昏睡状態に陥り、夜に逝ってしまいました。
多分、そんなに苦しまなかったと思います。
先日アドバイスいただいたように、適度な距離感をもつように、依存しすぎないようにしていたせいか
比較的冷静に看取ることができたと思います。
ありがとう、大好きだよと言い続けました。
生まれつきの短い命、頑張って精一杯生き切ってくれたし、自分も出来る限りのことをしたつもりです。
今はそう言い聞かせているせいか、思っていたほど落ち込んでいないのですが、
時間が経つにつれ、ああ、あの子は私が看病疲れ、心配疲れしすぎているのを察して、慌てて逝ってしまったのだろうか?
と思い始めました(入院から自宅へ戻った次の日に急変して亡くなりました)。
正直治ることのない病気でしたので、苦しみから早く解放してあげたいとも思っていました。
でも、本当はあの子が私を解放してくれたのかもしれません。
もっと落ち込んで食事もできないようになると思っていたので、比較的落ち着いている自分が不思議で戸惑っています。
本当に寂しく、悲しいことに間違いはないのですが。
これで良かったのでしょうか?
、
回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。
前回、回答させていただいた亀山純史です。
「自分自身、しっかりしなければ。」という思いの中に、今あなたはいるのではないでしょうか。だから、本当に寂しく、悲しいことでありながら、無意識のうちに、比較的落ち着いているように振る舞うことが出来ているのではないでしょうか。
あの子(愛猫)のために、あなたは精一杯のことをしてあげたと思います。そして、あの子は決して、あなたの看病疲れや心配疲れを察して、慌てて逝ってしまったのではありません。自宅へ戻ってきたことでの安心感で、そしてあなたの献身的なお世話のおかげで、あの子は安心をしてあの世に逝くことが出来たのではないのでしょうか。
「本当はあの子が私を解放してくれたのかもしれません。」とのことですが、あの子が亡くなって、確かに「いつ逝くのか。いつ逝くのか。」という気持ちからは解放されたことでしょう。その代わりに、あの子が逝ってしまったことで、あなたとあの子との思い出は純化され、あなたの心の奥に深く刻まれたことと思います。どうかその思い出をいつまでも大切にして行ってください。あなたがあの子との思い出を語るとき、あの子はあなたのそばで静かにその思い出に耳を傾けていることと思います。
最後に、「これで良かったのでしょうか?」との問いかけですが、これでよかったのだと思います。
動物というのは非常に感がするどいようで
僕たち飼い主の「気」をいち早く察知するようです。
ですから、飼い主を思って我が命を縮めたと考えることもできますね。
でも、命とは身体とはそういうものではありません。
最期の最期まで生きようと生命維持装置が働くものです。
そこにあなたとの「愛情の歴史」が加わることで、ねこちゃんに更なる生命力を与え
たことは間違いないのです、離れたくないと。
最期までねこちゃんに愛された実感が
今、あなたの心を穏やかにしていることを
亡くなったねこちゃんのために知ることです。
あなたが注いだ愛があなた自身を愛で包んだのです。
だから苦しくないのです。
人はやさしさを自分で産みだすことができる。
自分でない存在をいつくしむことができる。
あなたはそれを言われた通り実践して下さった。
あなたにその力が生まれた。
その力を与えてくれたのが、その猫です。
その猫はあなたの愛の力となったのです。
だから死んでません。
誰にでもその愛を注ぐことができるでしょう。
あなたとそのネコちゃんとの間に生まれた永遠の力です。
それがさらに誰かを救う力となれば慈悲になります。
時おり思い出しては、その力を使って、ひとにやさしくしてください。
職場を優しくしてください。
日本を優しくしてください。
世界を優しくしてください。
それがあなたの使命ニャ。
亀山様、四次元 法華塔様、丹下様
まだときどき寂しくて涙が出ますが、クロちゃん(猫の名前です)に命の重みと無償の愛のようなものを教えてもらった気がします。
皆様のお言葉で、気持ちがだいぶらくになりました。ありがとうございます。