hasunoha お坊さんが必ず答えてくれるお悩み相談サイト

お坊さんに質問する
メニュー
メニューを閉じる

不登校

回答数回答 2
有り難し有り難し 21

はじめまして、中学生の娘の事で質問いたします。1年生の夏休み明けがら不登校になりました。その時はクラブでの友達関係が原因で、本当に学校へは行けない状態でしたが、周りの助けもあり、テストをキッカケに徐々に学校へ行くようになりました。クラブは休部してました。学校へは送って行く事が多かったです。

2年生では自分で通学できるようになり安心してました。退部すると言って用紙をもらってきました。ですが2か月後に、やっぱり諦めたくないと戻りたいと相談して来たので、担任の先生と顧問の先生に相談の上で戻らせてもらい、友達も普通に迎えてくれたようです。

勉強は元からあまり得意ではなかったですが、クラブにはやれるとの思いがあったように思います。ただ、1年近く離れていた間に自分はやっぱり出来ない、みんなは上達している。自分はダメだ。とクラブも休みがちになり、学校も休みがちになってきました。
周りからはあれで出来てないって言うのは、なんでかな。とよく言われます。

子供の自己肯定感が低く、親としてどうしてあげれば良いのかわかりません。色々と考えて、その時の最善の選択をしてきたのですが、今は間違っていたのでは、もっと方法があったのではと思ってしまいます。

学校を休む事を本当に心から良いとは私自身が思えずにいます。ただ、子供が休みたいと言って来た時にはただ受け入れてあげるべきなのか、迷いが子供にも伝わっているのだと思います。


この問答を娑婆にも伝える
facebookTwitterLine

お坊さんからの回答 2件

回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。

ないものを相手にしていることを自覚させてあげる

親御さんの立場としては上手にお伝えすることが難しかもしれませんが、以前不登校やひきこもりや人間不信の方がうちの坐禅会や相談に来てくださって、即日治った方がおられます。若い人ほど素直なので効果が早いなぁと思ったものです。
その方々にはどのようなお話をしているかと言いますと「ないものを相手にしない」ことをいつもお話ししています。
私たち人間は嫌なことがあるとそれを引きずります。今もそれがあるかのように錯覚します。実物のその相手ではない自分の記憶や負のイメージを相手にしています。その自身の負のイメージに自ら怯え、自ら臆しています。ものごとを二つに分けてみている人は、リアルタイムの現実の現場よりも自分の記憶や自分の二次的な想念を相手にします。実際のリアルタイムの現場は自分が実際に思っていることとはまるで違うことが行われているのですが、どうしてもその記憶があまりにもキツイので、その嫌なことを思い返しては自らのお池にハマって抜け出せなくなってしまう。我々禅僧が坐禅をする理由の一つは「実物」を相手にする脳を活性化させるためでもあります。9割以上人間が思考・自分のアタマの世界を優先選択しているからです。
回転ずしで喩えましょう。
目の前にマグロが流れてくる。
「とろうか、食べようか、色悪いな、食べ過ぎると太るしな、どうしようかな、どうしようかな、うーん…」マグロ、GONE。
時は流れ、マグロもレーンも流れています。
事実の世界ではその他にアナゴ、イカ、ウニ、エビ、オクラ、カツオ…ワサビ色々なものがドンブラコドンブラコと流れています。ところが想念の世界にアドレスを置いている人は手を出す前に自らの迷いによって身動きができなくなるものです。もちろんマグロを食べなくてもいいのですが。※ここでいうマグロとは「現実・真実・リアルタイム・新鮮な今日の一日・今の一瞬」を象徴しています。
自らが自らの思いに影響させなくする方法はあります。
このような道理を明確に説いて、理解していただき、自分が相手にしたものが現実現場ではなく思いに迷っていることに気づければ、変われるものです。
これは文字なので伝わりにくいですが、人は必ず変われます。

{{count}}
有り難し
おきもち

お悩み相談08020659278
今月の法話 文殊の剣 ❝己がそのものを観ていながらそこに余計な色や思いをつけたさぬその己の様子を「こそ」見届けてみてください。❞(本文より) 「大丈夫、慧の剣を取る。」 大いなる菩薩や老師は智慧の剣を取って、人の迷いの見解を断ち切り真実の姿をみせてくださいます。 智慧の剣とは人間の自我、我見の無いこころからなる、無垢で清らかなる「事実の様子」「本来の様相」を見極める力ともいえましょう。 それこそが智慧の剣なのです。 文殊とは自己を鎮め得た者の姿。 人間の内なる思慮分別の猛獣を修め得て、その上に鎮座する姿。 事実を事実のとおりに見るということは、余分なものがないということです。 そこに現れる余分な見解というものを断ち切った姿。 そもそも、もともと一切の事象、事実というものには余分なものはありません。 とは言えども、それでも人は人の習癖・習慣的に物事に思いをつけたす。 いまや「写真で一言」という要らぬ添え物をするバラエティ文化もあるぐらいですから、ものを本当にそのままに受け取るということをしない。 文殊様の持つ剣、智慧の剣というものは、そういう人間の考えを断ち切る働きを象徴したものです。 その文殊の剣とはなにか? お見せしましょう。 いま、そこで、みているもの、きこえていること。 たとえ文字文言を観るにしても、そのものとして映し出されているという姿がありましょう。 文字として見えているだけで意味を持たせてもいない、読み取ってもいないままの、ただの文字の羅列のような景色としてみている時には、文字であっても意味が生じません。 本当にみるということはそこに安住しています。他方に向かわない。蛇足ごとが起こらない。 見届けるという言葉の方が適しているかもしれませんね。 ❝己がそのものを観ていながらそこに余計な色や思いをつけたさぬその己の様子を「こそ」見届けてみてください。❞それはものの方を見るというよりはそれを見ている己を見つめる姿ともいえましょう。 そういうご自身のハタラキ・功徳に気づく眼を持つことです。 あなたの手にはすでに文殊の剣がありますよ。用いることがないのはもったいないことですね。

今は娘様の傍に居てあげて下さい…

 お子様の苦悩に寄り添って下さい…ただ寄り添って下さい。
 不登校という状態はお母様としては肯定出来ないかも知れませんが、娘様だって御自身の行動を肯定出来てはいないでしょう。
 でも、娘様にはどうすれば良いのか分からない…ならば一緒に考えてあげて下さい。一緒に悩んで下さい。一緒にオロオロして下さい。
 娘様の問題の、その答えはお母様が出すのではありません…娘様御自身です。
 『選択が間違っていたのでは、もっと方法があったのでは』…そのような思いは、今の娘様を否定することに直結します。そんなお母様の思いは娘様にすぐに伝わるでしょう。そのような状態で娘様の自己肯定感が高まるはずはありません。
 焦る必要はありません。娘様の人生は先が長いのです…というより、まだ始まったばかりといえる年齢です。
 勉強でも、部活動でも、趣味でも、スポーツでも、芸術でも何でもよいと思います。御自宅または学校以外でも出来ることなど、とにかく娘様が何か一つのことに打ち込めるようにしてあげて下さい。出来ればお母様も一緒になさって下さい。
 今は娘様を放っておかれるよりは、御一緒にいた方が、支えてあげた方が良いように思います。そうすれば、いつか必ず娘様は一人で歩むことが出来るようになるでしょう。
 今は、娘様の側について下さい、傍に居てあげて下さい。
 あなたも娘様も仏様が支えて下さっています。導いて下さいます…。

{{count}}
有り難し
おきもち

質問者からのお礼

お返事ありがとうございます。
本当にそうですね。そうでありたいと思っていても、行動で言動で娘を不安にさせているのだと、そう感じております。

娘に寄り添って、大事だと伝え続けていこうと思います。
ありがとうございました。

お返事ありがとうございます。
目に見えない、自分の思いによって色々と左右されてしまうのは、大人でも一緒ですね。
なかなか、難しいですが子供にも伝えていきたいと思います。

煩悩スッキリコラムまとめ