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大学の卒アルについて

回答数回答 3
有り難し有り難し 19

こんにちは。はじめして。
相談に乗っていただけるとありがたいです。下記が相談内容です。

今はずいぶん楽になりつつですが、
長年鬱っぽく、あんなにしんどかったのに頑張って大学に通っていました。大学行っても空回りだったのですが、何もできない自分はダメだと思い無理して通ってしまいました。
行かなきゃよかったと今は思っています。暗く憂鬱な死にたい気持ちは小学生からあったので自分がうつであることすら知りませんでした。

そして、
今はとてもとても悩んでいることがあります。
一番心が悩むことは、大学の卒アルです。
撮りたくなかったのに、連れられました。
断ることをできませんでした。
自分の写真だけものすごく顔が三倍浮腫んでいて暗くてぞっとするくらい気持ち悪いです。
元気になった今の自分と全然違います。
ますます落ち込むし、
周りはキラキラ可愛く撮っているのに一生の恥です。卒アルは一生残るし、ずっと誰かの元にあるんだと思うと悲しいし、誰かに知られて見られたり、過去を知られたら本当に恥ずかしいので、衝動で死んでしまうかもしれません。
くだらないかもしれないですが、本気で毎日死にたいと思います。みっともなく一番の人生の汚点です。生きていけないです
今、24ですがもっと大人になればどうでもよくなりますでしょうか…。
どうしようもないことですが、
誰か話せる人がいないので
相談乗ってくださるとありがたいです。


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お坊さんからの回答 3件

回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。

大学の卒アルなんてまず見ない

大学の卒アル、私は買いませんでした。
買ったとしても、どれだけの人が見るでしょうか?
また、見たとしても、あなたの写真に気をとめる人がどれだけいるでしょうか。
第一、大学時代のあなたしか知らない人にとっては、普通に写っているだけの写真だし。
今のあなたを知っている人が、大学時代のあなたの写真を見て、さらにそのことを変に気にする、という確率はどれくらいでしょうか?

気にすることはありません。
また、そもそも人生は、みっともないことの連続ですが、過ぎ去ってゆくものです。
ここにお話くださってありがとうございます。
またみっともないエピソードを教えてください。
ちなみに私は、法事で行った家で読経のときに、リン(仏壇の前に置いてあるチーンと鳴るやつ、金属製の湯飲みみたいな形)を叩いていたら、急にリンの音が変わったのでチラ見したら、お経前に出されたお茶の湯飲みを間違って叩いていたことがあったのです!
ワイルドだろ?!

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有り難し
おきもち

がんよじょうし。浄土宗教師。「○誉」は浄土宗の戒名に特有の「誉号」です。四十代男。 仏教は、悩み苦しみを制御したり消したりするための教えです。まだまだ未熟者の凡夫ですがよろしくお願いします。

今のあなたは?

写真は過去です。
今スマホを出して、自撮りしてください。
その瞬間から「そやつ」は過去です。過去のあなた様です。
安心してください。それは残りカスです。
そして残念ながら、もうあの時には帰れません。
おまけに実物ではありません。
実際のあなたと違うものですから。
安心してください。あの時にはもう帰れないのです。
念の為、今晩、焼き鳥専門店に行って確かめてみてください。
そしてお店で地鶏の自撮りをしてお店で食べずにお家でその写真だけ食べてみてください。
味はありません。姿形もありません。
自撮りも他撮りもタンドリーも、もはやすでに撮り肉です。撮り肉には味も実質もありません。
写真だからです。
だって、写真は写真。真実を【映した】だけ。画像に『移した』だけ。
今のリアル真実ではないのですから全然OK。
芸能人だって過去はみな顔が違います(笑)。
でも、今が一番綺麗なのです。昔は昔。YES!! 劇的ビフォーアフター!
今、輝いています。
キレイでなくても、今が真実で、イチバン最終形です。
私もかつてスリムで女子もうらやむ美肌の持ち主でしたが、今や小さい頃うちの台所で日本酒飲みながらクダまいて、よっぱらって握手魔になるおじさん(故)みたく、手はぷよぷよしています。昔、乙女、今、太目でもよいのです。
なんでもネガティブに考えないことです。
太ったら、ああ、うどん作る時足で踏む回数が減ったっと思ってポジティブに考えてください。(ソウナノ?ソンナンデイイノ?)
私は写真にはこだわらない生き方をしています。
だって生きるってことは、真実を映し「た」ものの方ではなく、真実を映し「ながら」生きていっている、いま、ここ、目の前の事の方ですから。キラッ!フラッシュバックに用はありません。今をフラッシュしながら生きていくのサ。(キメ顔 自撮り)

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有り難し
おきもち

お悩み相談08020659278
今月の法話 文殊の剣 ❝己がそのものを観ていながらそこに余計な色や思いをつけたさぬその己の様子を「こそ」見届けてみてください。❞(本文より) 「大丈夫、慧の剣を取る。」 大いなる菩薩や老師は智慧の剣を取って、人の迷いの見解を断ち切り真実の姿をみせてくださいます。 智慧の剣とは人間の自我、我見の無いこころからなる、無垢で清らかなる「事実の様子」「本来の様相」を見極める力ともいえましょう。 それこそが智慧の剣なのです。 文殊とは自己を鎮め得た者の姿。 人間の内なる思慮分別の猛獣を修め得て、その上に鎮座する姿。 事実を事実のとおりに見るということは、余分なものがないということです。 そこに現れる余分な見解というものを断ち切った姿。 そもそも、もともと一切の事象、事実というものには余分なものはありません。 とは言えども、それでも人は人の習癖・習慣的に物事に思いをつけたす。 いまや「写真で一言」という要らぬ添え物をするバラエティ文化もあるぐらいですから、ものを本当にそのままに受け取るということをしない。 文殊様の持つ剣、智慧の剣というものは、そういう人間の考えを断ち切る働きを象徴したものです。 その文殊の剣とはなにか? お見せしましょう。 いま、そこで、みているもの、きこえていること。 たとえ文字文言を観るにしても、そのものとして映し出されているという姿がありましょう。 文字として見えているだけで意味を持たせてもいない、読み取ってもいないままの、ただの文字の羅列のような景色としてみている時には、文字であっても意味が生じません。 本当にみるということはそこに安住しています。他方に向かわない。蛇足ごとが起こらない。 見届けるという言葉の方が適しているかもしれませんね。 ❝己がそのものを観ていながらそこに余計な色や思いをつけたさぬその己の様子を「こそ」見届けてみてください。❞それはものの方を見るというよりはそれを見ている己を見つめる姿ともいえましょう。 そういうご自身のハタラキ・功徳に気づく眼を持つことです。 あなたの手にはすでに文殊の剣がありますよ。用いることがないのはもったいないことですね。

四十過ぎればどうでも良い

おっしゃる通り、大人になればどうでもよくなります。
四十も過ぎたら大概のことには動じなくなります。
僕は昔ガリガリで右瞼が下垂でした。ゲゲゲの鬼太郎みたいな感じです。
コンプレックスで手術しましたが、今では大した話ではなかったなと。
もちろん、当時は苦しみましたよ。

人は成長とともに価値観も成熟していきます。
何も心配はいりませんよ。

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有り難し
おきもち

「平等」という嘘を信じるな。 仏はこの世が不平等であり辛苦から絶対に逃れることの出来ない世界であるという。絶対に逃れることが出来ないにも関わらず、「平等」によって或いは「楽」によって人間が救われるというのは矛盾である。 不平等で辛苦極まりないこの世をあきらめ死後に救いを求めるのも人間否定そのものでお話にならない。 平等というのは自分が助かりたいという思いから生まれた自己優先の魔界の教えである。仏教はそうではない。 人を助けることを優先にすれば自分も救われるという考えだ。 人のために活きることで不平等が不平等でなくなり、辛苦が辛苦とも感じなくなるのである。 世のため人のために働いてみる。 「有り難う」 その言葉で、人はそれまでの苦労が苦でなくなるのである。 これが仏教の真の教えである。 生温い癒やしなどまったく意味がない。 積極的に人生を切り開くための教えに耳を傾けるべきである。 お寺やこのようなサイトの利用は一回にとどめなければならない。何度も相談するということは、まったく良くない傾向である。 お坊さんから聴く「仏の教え」によって生きる力を得て、二度とお寺に相談する必要がない幸せな人生を手に入れて欲しい。 本来ならば実際にお寺に足を運び相談すべきである。ここでご縁のあったお寺さんに必ず足を運ぶべき。それが億劫ならばその程度の悩みだということ。本当に切羽詰まっている人は必ずお寺に足を運ぶ。 その観点からご自身の悩みがどの程度のものなのかを推し量ってみることも有効であろう。 それと仏の教えが必要のない質問は無視する。なんでも応えてくれると思ったら大間違いだ。

質問者からのお礼

そうですか。本当にそうだといいなぁ

気にしなくていいよって言葉が欲しかったのでありがとうございます。

温かい気持ちになるお坊さん説法まとめ