hasunoha お坊さんが必ず答えてくれるお悩み相談サイト

お坊さんに質問する
メニュー
メニューを閉じる

気持ちが切り替えられないのです

回答数回答 3
有り難し有り難し 17

初めて質問させていただきます。

私は自分の気持ちを上手くコントロールできず、情緒不安定になりやすいです。
特に週の始めや学期の始めが弱く、昔から学期の始めはストレスから体調を崩しやすいです。

二十歳にもなって気持ちをコントロールできないことも恥ずかしいのですが、これから保育職に就こうとしている身なのでぜひとも解決案・改善案のアドバイスをいただきたいです。

秋冬は感情が乱れやすく、不眠症にも悩んでいます。

何卒宜しくお願い致します。


この問答を娑婆にも伝える
facebookTwitterLine

お坊さんからの回答 3件

回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。

ブルーな気持ちは誰しも。問題はその気持ちとどう仲良くするか。

亀山純史と申します。

あなたのような方は、俗に言うところの、ブルーマンデー(症候群)だと思いますが、いかがですか。ブルーマンデーとは、日曜日の夕方から憂鬱になり、月曜日に出勤できないという状態です。仮に、あなたの周りの人に、「月曜日って、憂鬱にならない?」と聞いてみたら、どんな返答が返ってくるでしょうか。確かにほとんどの人は、何食わぬ顔をして月曜日に出勤、登校して来ています。でも、ブルーマンデーという言葉があるくらいですから、多くの人が「あぁ、また一週間がはじまるのか。」というブルーマンデーにも近い気持ちを抱いていると思いますよ。問題は、その気持ちとどう仲良くするか、ということです。つまり、「あぁ、また一週間がはじまるのか。」という気持ちを持つな、ということではないのです。「あぁ、また一週間がはじまるのか。」という気持ちを持ちながらも、人は無意識のうちに、何か楽しいこと、気晴らしとなるようなことをうまく作っているのだと思います。
たとえば、
①仕事(学校の勉強)とは無関係なことであなたがやりたいことを、仕事(学校の勉強)の後に用意しておくのはどうでしょうか。私は現在、高校で教師をしていますが、生徒の中には、勉強よりも放課後の部活動のために学校に来ているのでは?と言いたくなるような生徒がいます。「学生の本分は勉学だ。」と言ってこのような生徒から部活動を奪い取ってしまったならば、彼らはブルーマンデーに陥ってもおかしくないかもしれません。
②友達と夕食を共にするとかはどうですか。ストレスを発散することが出来るでしょう。
③バーチャルな友達(あるいは内面の自分)への手紙(メール)でも書いてみてはどうでしょうか。そのような手紙(メール)は、やがてはあなたの日記として財産になると思いますよ。
いくつか挙げてみましたが、最後に、中部経典からの一節を紹介しておきます。
「過去を追うな。未来を願うな。
過去はすでに捨てられた。そして未来はまだやってこない。
だから現在のことがらをそれがあるところにおいて観察し、
揺らぐことなく動ずることなく、よく見きわめて実践せよ。
ただ今日なすべきことを熱心になせ。」
どんなに仕事(学校の勉強)から離れたことをもつことで、ブルーマンデーが克服できたとしても、基本は「今日なすべきことを熱心になせ。」であることを忘れずに。

{{count}}
有り難し
おきもち

hasunohaを訪れてくれた皆さん、こんにちは。私は浄土真宗本願寺派の僧侶です。令和6年3月に、公立高校の教員を勧奨退職しました。その後、縁あって、令和6年4月からは「まちサポ雫石」というNPO法人のお手伝い、また、令和6年10月からは公立高校の非常勤講師をしています。 浄土真宗における僧侶は、仏さまの教えに生き、その教えを伝える者であり、人を悩みから救う能力を有した者ではありません。人の悩みを救う救いの主は阿弥陀さまです。ですので、hasunohaにおける私の回答では、仏さまの教えに救われているこの私の生き方、考え方を、皆様にお見せするだけです。そして私自身、お答えできるご相談の範囲はそう広くはありませんが、皆様のお役に少しでも立てればと思い、回答させて頂いております。

それは健康病。それで健全。自分で病気になってはダメ。

健康という病気があります。
100%健康でなければ不完全だから病気かもしれないと思い込んでしまうことです。
誰かに情緒不安定とか言われたのでしょうか。(^<^)
あなたは暗示にかかっているだけです。これをご覧になられている時も、情緒不安定だとか気にしていなかったでしょう。 
その年頃は、色々進路のことで不安になって当然ザマス。
どこの誰が10代、20代にして、奈良、鎌倉の大仏の如く落ち着いた風格を表せるというのですか。
私なんか、10代と言えば高校時代はのリコーダーのテストで女子の前でのリコーダー演奏で緊張して天然トリル連発でお祭りのお囃子の如くピロピロいわしていた多情多感な時期でしたわいの。
それから、三年四年。大して変わる事などありません。
「情緒不安定」「コントロールできていない」など自分の精神状態を決めるラベルな言葉を全部忘れてみましょう。
あなたは病気でも何でもアラジンです。
大丈夫です。全然オッケーです。(^<^)

{{count}}
有り難し
おきもち

お悩み相談08020659278
今月の法話 文殊の剣 ❝己がそのものを観ていながらそこに余計な色や思いをつけたさぬその己の様子を「こそ」見届けてみてください。❞(本文より) 「大丈夫、慧の剣を取る。」 大いなる菩薩や老師は智慧の剣を取って、人の迷いの見解を断ち切り真実の姿をみせてくださいます。 智慧の剣とは人間の自我、我見の無いこころからなる、無垢で清らかなる「事実の様子」「本来の様相」を見極める力ともいえましょう。 それこそが智慧の剣なのです。 文殊とは自己を鎮め得た者の姿。 人間の内なる思慮分別の猛獣を修め得て、その上に鎮座する姿。 事実を事実のとおりに見るということは、余分なものがないということです。 そこに現れる余分な見解というものを断ち切った姿。 そもそも、もともと一切の事象、事実というものには余分なものはありません。 とは言えども、それでも人は人の習癖・習慣的に物事に思いをつけたす。 いまや「写真で一言」という要らぬ添え物をするバラエティ文化もあるぐらいですから、ものを本当にそのままに受け取るということをしない。 文殊様の持つ剣、智慧の剣というものは、そういう人間の考えを断ち切る働きを象徴したものです。 その文殊の剣とはなにか? お見せしましょう。 いま、そこで、みているもの、きこえていること。 たとえ文字文言を観るにしても、そのものとして映し出されているという姿がありましょう。 文字として見えているだけで意味を持たせてもいない、読み取ってもいないままの、ただの文字の羅列のような景色としてみている時には、文字であっても意味が生じません。 本当にみるということはそこに安住しています。他方に向かわない。蛇足ごとが起こらない。 見届けるという言葉の方が適しているかもしれませんね。 ❝己がそのものを観ていながらそこに余計な色や思いをつけたさぬその己の様子を「こそ」見届けてみてください。❞それはものの方を見るというよりはそれを見ている己を見つめる姿ともいえましょう。 そういうご自身のハタラキ・功徳に気づく眼を持つことです。 あなたの手にはすでに文殊の剣がありますよ。用いることがないのはもったいないことですね。

お題目を唱えなさい

ただ、ひたすら南無妙法蓮華経と声も惜しまず唱えます。
情緒不安から必ず解放されます。
ご参考までに。

{{count}}
有り難し
おきもち

「平等」という嘘を信じるな。 仏はこの世が不平等であり辛苦から絶対に逃れることの出来ない世界であるという。絶対に逃れることが出来ないにも関わらず、「平等」によって或いは「楽」によって人間が救われるというのは矛盾である。 不平等で辛苦極まりないこの世をあきらめ死後に救いを求めるのも人間否定そのものでお話にならない。 平等というのは自分が助かりたいという思いから生まれた自己優先の魔界の教えである。仏教はそうではない。 人を助けることを優先にすれば自分も救われるという考えだ。 人のために活きることで不平等が不平等でなくなり、辛苦が辛苦とも感じなくなるのである。 世のため人のために働いてみる。 「有り難う」 その言葉で、人はそれまでの苦労が苦でなくなるのである。 これが仏教の真の教えである。 生温い癒やしなどまったく意味がない。 積極的に人生を切り開くための教えに耳を傾けるべきである。 お寺やこのようなサイトの利用は一回にとどめなければならない。何度も相談するということは、まったく良くない傾向である。 お坊さんから聴く「仏の教え」によって生きる力を得て、二度とお寺に相談する必要がない幸せな人生を手に入れて欲しい。 本来ならば実際にお寺に足を運び相談すべきである。ここでご縁のあったお寺さんに必ず足を運ぶべき。それが億劫ならばその程度の悩みだということ。本当に切羽詰まっている人は必ずお寺に足を運ぶ。 その観点からご自身の悩みがどの程度のものなのかを推し量ってみることも有効であろう。 それと仏の教えが必要のない質問は無視する。なんでも応えてくれると思ったら大間違いだ。

温かい気持ちになるお坊さん説法まとめ