ルール違反の自転車への怒りが抑えられません
はじめまして。
よろしくお願いいたします。
私は比較的ルールやマナーは守らなくてはいけない、という気持ちが強い方だと思うのですが、
特に自転車を無灯火や片手で運転したり、車道を逆走、歩道でスピードを出して走行したり歩行者にベルを鳴らしたりする運転手への嫌悪感がとても強く、
怒りのあまり相手を睨んだり、すれ違い様に「逆走するなよ」「ライトぐらいつけろ」などと文句をつけてしまうことがままあります。
それが原因でトラブルになったこともあり、
そのたびに「今回は無事だったけれど、こんなくだらないことで恨みを買っていたらいつか自分や大切なものが傷つけられる可能性もある。自分も必ず誰かに迷惑をかけているのだし、交通違反だって絶対にしないとは言いきれない。他人を変えようなんておこがましいことを考えるのはやめよう」
と反省するのですが、喉元過ぎれば熱さを忘れるというもので、
しばらく経つとまた同じようにイライラして余計なことをしてしまうのです。
意味のないことと理屈ではわかったつもりでも、
本心ではこれまでしてきたことを間違っていないと考えていて、
許せない相手には嫌な思いをさせて罰してやらなければ気が済まない、
という思いが強すぎるのだと思っています。
このようなくだらない気持ちを手放したいです。
回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
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怒りよりも悲しみを!
希美さん、こんにちは。
自転車のルールマナー守らない人って多いですね。車を運転している本 当に冷ってしてしまうことがたくさんあります。希美さんは、正義感が強い人なんでしょう。許せないのはわかります。
でも仏教では例え正しくても怒りを持って対応することを認めていません。怒りで過ちに対応しても解決にならないからです。怒りは逆に自分の冷静さを失わせます。注意しているのに怒りで逆に暴力をしてしまったというような事件を良く耳にしますが、せっかく正義があっても怒りを対応を間違わせるのです。
仏さまは不正に対しては怒りではなく「可哀相な人だ」という悲しみで受けることを進めます。相手は真理を知らない、正しいことを知らない、あるいは悪い心に染まっているため、正しいことができないのです。だから心のレベル上の人は、怒るのではなく悲しむのです。希美さんの方が人間的に上であるという自覚がないとできません。怒ることは心においては同じレベルであることを証明してしまいます。
そして相手をどうすれば正しい道に導くことができるのかという、さらに一歩上の心のレベルにあがります。するとただ怒って注意するだけでは相手は聞くことはありませんので、いろいろな方法を使って相手を正しい道に入れる智慧を考えるのです。この導く方法を「方便」といいます。例えば急がばまわれで交通運動を盛んにして社会を変えようでもいいでしょう。もしかしたら政治を動かして罰金刑にする方法でルールを守らせるようにすることかも知れません。大切なのはルールを守らせるにはどうすればいいのかという目的が大切であって、怒りに任せていうのは成果の少ない方法論であり、ルールを守らせる目的に向かわないのです。
是非、希美さんの正義感を仏さまの教えにあわせて、心のレベルをあげて対応してください。社会に貢献できる正義感を持ち続けてもらいたいと思います。
合掌
質問者からのお礼
あたたかいお言葉を頂戴し、ありがとうございます。