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人との関わり方について

回答数回答 1
有り難し有り難し 25

わたしは、物心ついたころからとても人見知りです。
小学生の頃は、発表会など、クラスのみんなの前で話すことが恥ずかしすぎて泣いたこともあります。
お店のレジすら、中学の頃まで苦手で行きにくかったほどです。
しかし、高校の頃まではなんだかんだで友達やクラスメイトの誰かがお世話を焼いてくれて、今思えばとても恵まれていたので積極的に人見知りを直そうとはしませんでした。
更に受験に失敗して二年以上ニートしたせいで会話力が落ち、今、働き始めてとても苦労しています。
会社の人たちの雑談に入っていけないのです。
入れていただいた会社は、お昼はみんなで一緒に食べるのが方針で、みんなでワイワイ食べるのですが、入って二週間、わたしは未だにその会話に自分から入っていけません。
大縄跳びのように、入るタイミングが全く掴めない上、話も興味のないものが多く、何より新人がいきなり会話に入ったら盛り上がりを下げてしまうかもしれないと思ってしまって口が開きません。
話しかけてもらえても、口下手がすぎてコミュ障丸出しの話し方をしてしまい、話を膨らませることができません。
元々自分に自信がなかったわたしですが、中学の頃にちょっとしたいじめにあい、更に大学受験失敗からのニートで自尊心が地に落ちているせいで、わたしなんかが話しかけたら迷惑だよね、などの、わたしなんか、という思いが先行してしまいます。
どうしたら、自分に少しでも自信が持てますか?


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お坊さんからの回答 1件

回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。

知らない組織に所属する必要など全く無し!!

コミュ障?
コニュ障なのはむしろ「そっち」だと思うくらいでよろし。あなたは別にコミュ障でもなんでもない。ただ純粋で素直なだけです。純度の高い混じりけのない宝石の原石であると思った方がイイでしょう。
この世、現代はウソつきほどコミュニケーション能力が高いと評価される世の中なだけです。
空気を読む、相手に合わせる、迎合、おもね、こびへつらい、本心を隠す。
そんなもののどこがコミュニケーションの高さだと言えましょうか。
だからニュースキャスターや司会者、政治家はみんな嘘つきでしょう。良く動く口で世間の本当の声を知りながらも自分の職を失いたくないから自分より偉い人にはペコペコ。ホントのことは言わない。自分の都合の悪いことは口にしない。
世間の言うコミュニケーション能力の高い人と言われる人間の究極がその程度です。
世間は嘘つき能力の高さ=コミュニケーションの高さだとカン違いしているだけです。
だからお笑い芸人さんやら芸能人さんらは、みんなある種のオフィシャルウソの達人。故にそれをしらないおバカちゃんたちに評価され、もてはやされる。お互いにたぬきキツネのばかしあい。
狡猾度を高めたければそうすればいいだけのこと。
そんな能力をいくら高めたって結局嘘つき能力を高めるだけで相手を小ばかにするようになるくらいなものです。明日、ワイドショーやお笑い番組の司会者をよく観察すれば、ここの言っていることがわかるはずです。
口ウマ=誠実な人ではない。むしろウソの上手な人ばかり。
あなたはそういう人にならなくていいのです。
あなたの問題は「わたしなんかという思いが先行してしまう」ことでしょう。
つまり話している相手がほぼ9割がた自分なのです。
リアルの相手を相手にしていないと知ると良いでしょう。
リアルの相手はあんたじゃない。
あなたは相手だと思って話している人は実はほぼ自分なのです。
ここで言っている意味が分かるまで実験してみてください。
人と話す時に自分を相手にしなくなればあなたはあなたでいられる。
世間の言う会話のほとんどは自分を相手にしているものです。
だから自分のことしかない。その結果、自分の妄想を相手にするようになる。
今のあなたもおそらくほぼ自分のことしかないのではないでしょうか。
ここで言っていることの真意はあなたがあなたの「思ったこと」を優先しないことなのです。

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有り難し
おきもち

お悩み相談08020659278
今月の法話 文殊の剣 ❝己がそのものを観ていながらそこに余計な色や思いをつけたさぬその己の様子を「こそ」見届けてみてください。❞(本文より) 「大丈夫、慧の剣を取る。」 大いなる菩薩や老師は智慧の剣を取って、人の迷いの見解を断ち切り真実の姿をみせてくださいます。 智慧の剣とは人間の自我、我見の無いこころからなる、無垢で清らかなる「事実の様子」「本来の様相」を見極める力ともいえましょう。 それこそが智慧の剣なのです。 文殊とは自己を鎮め得た者の姿。 人間の内なる思慮分別の猛獣を修め得て、その上に鎮座する姿。 事実を事実のとおりに見るということは、余分なものがないということです。 そこに現れる余分な見解というものを断ち切った姿。 そもそも、もともと一切の事象、事実というものには余分なものはありません。 とは言えども、それでも人は人の習癖・習慣的に物事に思いをつけたす。 いまや「写真で一言」という要らぬ添え物をするバラエティ文化もあるぐらいですから、ものを本当にそのままに受け取るということをしない。 文殊様の持つ剣、智慧の剣というものは、そういう人間の考えを断ち切る働きを象徴したものです。 その文殊の剣とはなにか? お見せしましょう。 いま、そこで、みているもの、きこえていること。 たとえ文字文言を観るにしても、そのものとして映し出されているという姿がありましょう。 文字として見えているだけで意味を持たせてもいない、読み取ってもいないままの、ただの文字の羅列のような景色としてみている時には、文字であっても意味が生じません。 本当にみるということはそこに安住しています。他方に向かわない。蛇足ごとが起こらない。 見届けるという言葉の方が適しているかもしれませんね。 ❝己がそのものを観ていながらそこに余計な色や思いをつけたさぬその己の様子を「こそ」見届けてみてください。❞それはものの方を見るというよりはそれを見ている己を見つめる姿ともいえましょう。 そういうご自身のハタラキ・功徳に気づく眼を持つことです。 あなたの手にはすでに文殊の剣がありますよ。用いることがないのはもったいないことですね。

質問者からのお礼

回答ありがとうございます。
話している相手が自分、というのは、本当にそ
の通りです。
確かに、自分の気持ちを相手に反映しながら話をしていたかもしれません。
少しずつ改善していけるように頑張ります。

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