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自分がどうしたいのかわからない

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自分が何をしたいのか、生きる意味がわかりません。

仕事が嫌になったにも関わらず、転職する気力もなく辞めることが正しいのかわからなくなり、復職したものの、辛い気持ちは存在し、何をしたいのかわからなくなってきました。

家族をつくると変わるとか周囲からは言われますが、昔の思い出を壊したくなく、そういう気持ちすら起こりません


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お坊さんからの回答 2件

回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。

自分が何を『したいか』では救われない

何をしたいかというのは自分の望みをかなえる方向性です。自分の望みとは、突き詰めていくと欲です。欲は際限がありません。今、欲を満たしてもやがて一回り肥えた欲がやって来ます。それを繰り返しても決して心は満たされませんし、生きる意味は見出せません。

そのように自分と向き合うのではなく、お客さんと向き合ってみましょう。あるいは同僚や上司と向き合いましょう。そうすれば右手と左手にヒモを結んで、手を広げたらヒモがピーンと張るように、相手と自分との間に1つの道ができます。それがあなたのすべきことです。何を『したいか』ではなく、何を『すべきか』が見えてきます。それを1つ1つやっていくだけです。そういうことを続けていくと、やがて生きがいと言うと大げさかもしれませんが、喜びのようなものが見えてきます。

私だってお葬式なんかしたくないですよ。特に突然亡くなった方のお葬式。でも、私を必要としてくださるお檀家さんがいらっしゃるから、やらせていただく。そして七日参りで一週間ごとにお会いし、あるいは毎年のお盆のお参りでお会いするたびに少しづつ、少しづつ遺族の方の笑顔が増えていく様子を拝見できれば、こちらが救われるような思いがします。そして、とても光栄なことだと思っています。大切なのは私がお葬式をしたいかどうかではなく、目の前に相手がいて、私がいる。その間にヒモをピンと張らせることなのです。それがたまたま葬儀だったり、あるいはこのhasunohaだったりするだけのことです。自分のやりたい仕事内容を悩んでも前には進めません。逆に言えば、相手に向かい合っている限り、どの仕事でも同じことをしているのですよ。その相手が人間とは限りませんけどね。

昔の思い出を壊したくないから家族を作りたくない…フム、違いますよね。昔の思い出を伝える発想がないから家族を作る気にならないのでしょう。例えば父親にキャッチボールを教えてもらったなら、その幸せを次の世代に受け継ぐように、我が子にキャッチボールを教えてやるんです。新しい環境が出来ても昔の思い出は無駄になりません。ただ、『受け継ぐ』だけです。

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有り難し
おきもち

曹洞宗副住職。タイ系上座部仏教短期出家(捨戒済み)。仮面系お坊さんYouTuber「仏教・お寺ch 大慈」。 【現代日本仏教最大の課題のひとつはコミュニケーション不足】をミッションに10年以上、インターネット上で情報発信をしています。 YouTubeでは仏教の教えや読経だけでなく、お寺の真相やお坊さんの生活が分かる動画を配信しています。(リンクは↓のURL)

自分が何かしなければに押しつぶされない

have to have to
must must
should should
自分の脳内が「助動詞」にこき使わされていませんか?
自分の脳に命令するのも自分。
誰かや周りの状況によって命令されているのです。
周りがみんなそうだからと言って、あなたもしなきゃいけないわけではありません。
あなたも含め人間の多くが集団ボケです。
完全独立してみてください。
あ、何かしなきゃいけないわけでもなかったのかい。(゜-゜)
と目覚めが起きるでしょう。
あなたが恐れているのは孤立感ではないですか?
トコトン一人になってみてください。
傷のなめ合いに等しい薄っぺらい人間関係に首を突っ込む必要なんかありません。
あなたはあなた。
ガツンとタマシイ入れ直してしっかり眼を開いていきなさいナ。
昔の思い出何てもう用はありません。
これから思い出を作るのです。
過去には感謝。
今日は今日の授かり。
明日のやすらぎの為にも、もう余計なはからいを捨てて生きてみましょう。

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有り難し
おきもち

お悩み相談08020659278
今月の法話 文殊の剣 ❝己がそのものを観ていながらそこに余計な色や思いをつけたさぬその己の様子を「こそ」見届けてみてください。❞(本文より) 「大丈夫、慧の剣を取る。」 大いなる菩薩や老師は智慧の剣を取って、人の迷いの見解を断ち切り真実の姿をみせてくださいます。 智慧の剣とは人間の自我、我見の無いこころからなる、無垢で清らかなる「事実の様子」「本来の様相」を見極める力ともいえましょう。 それこそが智慧の剣なのです。 文殊とは自己を鎮め得た者の姿。 人間の内なる思慮分別の猛獣を修め得て、その上に鎮座する姿。 事実を事実のとおりに見るということは、余分なものがないということです。 そこに現れる余分な見解というものを断ち切った姿。 そもそも、もともと一切の事象、事実というものには余分なものはありません。 とは言えども、それでも人は人の習癖・習慣的に物事に思いをつけたす。 いまや「写真で一言」という要らぬ添え物をするバラエティ文化もあるぐらいですから、ものを本当にそのままに受け取るということをしない。 文殊様の持つ剣、智慧の剣というものは、そういう人間の考えを断ち切る働きを象徴したものです。 その文殊の剣とはなにか? お見せしましょう。 いま、そこで、みているもの、きこえていること。 たとえ文字文言を観るにしても、そのものとして映し出されているという姿がありましょう。 文字として見えているだけで意味を持たせてもいない、読み取ってもいないままの、ただの文字の羅列のような景色としてみている時には、文字であっても意味が生じません。 本当にみるということはそこに安住しています。他方に向かわない。蛇足ごとが起こらない。 見届けるという言葉の方が適しているかもしれませんね。 ❝己がそのものを観ていながらそこに余計な色や思いをつけたさぬその己の様子を「こそ」見届けてみてください。❞それはものの方を見るというよりはそれを見ている己を見つめる姿ともいえましょう。 そういうご自身のハタラキ・功徳に気づく眼を持つことです。 あなたの手にはすでに文殊の剣がありますよ。用いることがないのはもったいないことですね。

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