自分が生きていていいのか不安になります
初めて質問させていただきます。よろしくお願い致します。
世の中には競争が溢れていて、必然的に勝者と敗者が生まれています。それが本当に正しいのか、私には分からないのです。むしろ、よろしくないのでは、と思っています。しかしそれでは社会で生きていけそうもなく、どうすればいいのか途方に暮れています。
約10年前から、「私のやっている事は、結局は他人を踏みにじっているだけのではないか」「(間接的にとはいえ)自分の欲望の為だけに他人を貶めているのではないか」と疑問に思い始めて、私は競争の中に身を置く事を嫌いになってしまいました。
生存のための競争は生き物の当然の本能です。でも、理性を備えた人間が、あくまでそれに従ったままなのはおかしいと思ってしまう自分も居て、自分はおかしいのでは、と思ってしまいます。社会に居る人間は、皆これを受け入れて、日々生活しているのだろうと思います。
しかし、これをおかしいと思ってしまう自分は、この現代社会において、「生きる」という価値があるとは、私には思えないのです。
「こんな事をしたくはなかった」と方便を垂れて、誰かの生きる場所を奪い、絶望の淵へ落とす。その責任と罪の意識を贖える程、私に何かを成す才能はありませんし、居場所を奪ってしまった誰かに報いる事もできません。
そもそも、私が優劣を付けて踏み台にしてきた人間に、私が踏み台にしていい理由はなかったように思えます。彼らもまた一人一人尊ばれるべき人間の筈で、能力の差は虐げてもよいという理由にはならないと思っています。
結果、私は社会に馴染む事も出来ず、親に生活を援助してもらうような有様です。情けないとは思いつつも身動きが取れず、どうすればよいのか分かりません。自分の行為が、自分が生きる事が誰かを苦しめるだけなら、私はいない方がいいのでしょうか。
良い解決法はありますでしょうか。よろしくお願いします。
回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
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個と集団の目的。
はるかさん、こんにちは。
人間の生きるとしての根本的な問題ですね。それを悟れば仏さまになります(笑)。
生き物はすべて競争の社会です。そこで生き残ったものが、生きることを許されます。弱肉強食の世界を、まずは私たちは受け入れなければなりません。
でもそこには、強いものが必ず勝つという目的だけが存在しているのではありません。個ではそのことを運命づけられますが、集団では常にそこに調和が生まれ、集団としての生存が許されます。動植物は常にこの調和の中で、地球の環境と戦って進化してきたのです。
人間の世界も同じです。強いものだけが生きられるのではありません。個だけは生きられないのです。弱いものも含めて多くのものを生かすことがで強いものがより生きることが歴史の中でわかってきました。その歴史の中で民主主義という思想が生まれてきたわけです。まだまだ全員が救われるわけではありません。多くの犠牲を出しながらも、どうすれば多くの人が救われるか、常に涙を流しながら戦って今があります。
はるかさんも私もまた多くの犠牲の上で生きています。それなしには生きられません。でも、はるかさんは10の命を奪っているかも知れませんが、はるかさんが生きることで20の命を育んでいるのであれば、はるかさんは10の命を育てたことになります。すべての命を救うことはまだまだできませんが、マイナスにならない生き方をすれば、集団としては生きる価値があるのです。
あなたが死んでしまったら、10の命は救えないことになります。はるかさんには生きることで価値があるのです。
お互い、10だけでない、20も30もがんばって、生命を育んでいきましょう。それがはるかさんの価値です。
合掌