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子供の改名

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初めて質問させて頂きます。
宜しくお願い致します。

現在5ヶ月の赤ちゃんがいるのですが、難読な名前を付けてしまい、改名を考えています。

出生届を出した数日後に、検診で産婦人科に行った際に、看護師さんに『難しい名前だね!』と言われたのをきっかけに悩んでしまい、もしかして子供の名前はキラキラネームではないかと後悔しています。
(名前はお坊さんにのみ公開させて頂いております。)

友人にも何人か名前を伝えましたが、やはり難しい名前だねと言われました。

不妊治療の末にやっと授かった子で、気持ちが入りすぎてしまったのかも知れません。名前は個人を認識するもの、読めないと不便であるという意識が欠けていました。本当に子供に申し訳ないです。

子供の名前を言った時の相手の反応が怖くて、家に引きこもるようになってしまいました。
家族に勧められ精神科にも行きましたが、鬱の一方手前と言われてしまいました。

改名について、夫と両家の両親と話し合いましたが、今時は難読な名前の子はたくさんいるから変えなくて良いという意見でした。

でも私はどうしても納得がいかないのです。
24時間ずっと、名前のことばかり考えてしまいます。

子供の名前は所謂キラキラネームでしょうか。
将来のことを考えて改名した方が良いでしょうか。

これから小学校受験もありますし、就職ではキラキラネームの子は苦労すると聞き、本当に不安でたまりません。

まとまりの無い文章で申し訳ありません。
長文になってしまいましたが、読んで頂きありがとうございました。

どうかご意見をお聞かせ頂けますでしょうか。
宜しくお願い致します。


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お坊さんからの回答 2件

回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。

「わたくしする」ことが苦しみの原因

キラキラネームかどうかはわかりませんが、気を付けなければいけないのはエゴエゴした「ギラギラ」がそこに無い方がイイということです。
どんな名前であれ、お子さんに超・親好みの名前を「わたし好み」「私流に」「独自で」でつけるとします。
そして「この文字・この名前・この読み方」はキラキラネームだろうか?とその読み方に対して「わたくし」する。
TVをみるにも、何をみるにも読むにもすぐに「わたくし流の」茶々を入れる。
他人と関わらず、自分の価値観だけで一人で生活していくうちに「わたくし流」の考え方がどんどん膨らみ、妄想する。
子育ての際にもお子さんが「こうしたい」というがあるのに「え!?私は嫌い・イヤ」と親の好みと違うからというだけで子供の尊厳を無視してダメと言って「わたし好み」に育てる。

世の中のキラキラネームが問題にされていることの最大の問題点はキラキラネームの読みにくさよりも、親の子供に対する私的な占有感覚であろうと思います。
子供をそもそも「親の」ものと思ってしまう。
無意識、無自覚に子供に何かを強要する。
「自分の」「わたしの」「親の」「わたしにとって」「私的には」「私があなたを」「マイベイビー」「あたしのあたしの」「MY MY」「I MY ME」「私が私が」と百回くらい言ってみてください。気持ち悪くなってきますよ。エゴ黒い。
あなた自身もそういう意識に支配させられてはいけない。
あなたも他人からの「わたくし意識」に支配されれば苦しいはず。お子さんだって同じ。
愛はあっても過剰なエゴ愛、エゴ黒愛は重苦しい。
距離を置こうとドライになりすぎても愛がない。
愛は学校では教えてくれません。すべて自己責任です。
どのような名前であれ、一番の苦しみの原因は上記のような「わたくし」というエゴ黒い感情なのです。そこに向き合い、つつしみをもって自分のエゴ黒さをお子さんにもご主人にも物事にも、何に接するにもあなたの中からハトポッポ時計みたいに出さないようにすることです。

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有り難し
おきもち

お悩み相談08020659278
今月の法話 文殊の剣 ❝己がそのものを観ていながらそこに余計な色や思いをつけたさぬその己の様子を「こそ」見届けてみてください。❞(本文より) 「大丈夫、慧の剣を取る。」 大いなる菩薩や老師は智慧の剣を取って、人の迷いの見解を断ち切り真実の姿をみせてくださいます。 智慧の剣とは人間の自我、我見の無いこころからなる、無垢で清らかなる「事実の様子」「本来の様相」を見極める力ともいえましょう。 それこそが智慧の剣なのです。 文殊とは自己を鎮め得た者の姿。 人間の内なる思慮分別の猛獣を修め得て、その上に鎮座する姿。 事実を事実のとおりに見るということは、余分なものがないということです。 そこに現れる余分な見解というものを断ち切った姿。 そもそも、もともと一切の事象、事実というものには余分なものはありません。 とは言えども、それでも人は人の習癖・習慣的に物事に思いをつけたす。 いまや「写真で一言」という要らぬ添え物をするバラエティ文化もあるぐらいですから、ものを本当にそのままに受け取るということをしない。 文殊様の持つ剣、智慧の剣というものは、そういう人間の考えを断ち切る働きを象徴したものです。 その文殊の剣とはなにか? お見せしましょう。 いま、そこで、みているもの、きこえていること。 たとえ文字文言を観るにしても、そのものとして映し出されているという姿がありましょう。 文字として見えているだけで意味を持たせてもいない、読み取ってもいないままの、ただの文字の羅列のような景色としてみている時には、文字であっても意味が生じません。 本当にみるということはそこに安住しています。他方に向かわない。蛇足ごとが起こらない。 見届けるという言葉の方が適しているかもしれませんね。 ❝己がそのものを観ていながらそこに余計な色や思いをつけたさぬその己の様子を「こそ」見届けてみてください。❞それはものの方を見るというよりはそれを見ている己を見つめる姿ともいえましょう。 そういうご自身のハタラキ・功徳に気づく眼を持つことです。 あなたの手にはすでに文殊の剣がありますよ。用いることがないのはもったいないことですね。

改名までしなくても

改名までしなくてもよいと思います。
読み方としても、ありえる読み方だと思います。

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おきもち

がんよじょうし。浄土宗教師。「○誉」は浄土宗の戒名に特有の「誉号」です。四十代男。 仏教は、悩み苦しみを制御したり消したりするための教えです。まだまだ未熟者の凡夫ですがよろしくお願いします。

質問者からのお礼

お礼が遅くなりまして申し訳ありませんでした。有り難く、読ませて頂きました。とても難しいですが、子供のことを一番に考えて決めたいと思います。

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